おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
人生には潤いが必要だと誰もが感じます。日々の生活に追われるだけの生き方では、体も心も消耗し、ついには枯れ果ててしまいます。肉体には休息が、心には安らぎがあることが大切です。渇いた体に水が必要なように、心や魂にも潤いが必要です。
旧約聖書の詩編を読んでいると、この「魂の渇き」や「魂の潤い」についての言葉が目に付きます。詩編の第1編には、「流れのほとりに植えられた木」という言葉が出てきます。流れのほとりに植えられた木は十分な潤いを得て葉が茂り、時が来れば実を結びます。人間もこれと同じだというのです。神の教えが人の心を潤し、豊かな実を結ばせます。反対に神の教えに聞かないでいると、人間としての潤いを失い、空虚な籾殻のように風に吹かれて飛び去るしかありません。このことを詩編の一番最初で語っていることは、意義深いことです。
もちろん、いきなり神の教えといわれても、ぴんとこないのはわかります。ただ、この詩編は読む人、一人ひとりに問いかけているように思うのです。
「流れのほとりに植えられた木」のようになるために、あなたはどんなことに注意を払って生きているのかと。ただ生きているだけの人間ではなく、潤いを得て葉が茂り、実を結ぶような人生を歩むように、あなたはどんなことに心を用いて生きているのか、と。この問いかけにしっかりと向き合うことが大切です。
また、詩編の中では、罪を犯した重圧に苦しむ魂を、まるで夏の日照りにあって衰えてしまう人にたとえています。詩編32編の中で、ダビデ王は良心の呵責に苛む自分をこう表現しました。
わたしは黙し続けて
絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
御手は昼も夜もわたしの上に重く
わたしの力は
夏の日照りにあって衰え果てました。
わたしは罪をあなたに示し
咎を隠しませんでした。
聖書の中では、罪とは神の御心に従わず、神の律法にそむくことです。そのような中にあるとき、魂がどれほど潤いを失い、渇ききってしまうのかを、この詩編は見事に表現しています。
もちろん、罪とか神の御心といきなり言われてもぴんとこないのはわかります。しかし、この詩編が人間一人ひとりに問いかけているのは、良心の呵責に苦しむとき、どうやってそれを解決し、魂に再び潤いを得るのか、ということです。誰もが良心の呵責に悩むとき、魂が衰え果てていくのを感じているはずです。そうであれば、それを放置しておくことはできません。
さらにまた詩編の中では、魂の渇きを表現して、水を求める鹿にたとえられています。しかも、水の豊かな清流に足を運ぶ鹿ではなく、涸れた谷になおも水を探してさまよう鹿です。この鹿の姿は悲惨です。水があると思った場所に水がないのですから、渇ききってしまいます。
詩編42編はこう歌います。
涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
いつ御前に出て
神の御顔を仰ぐことができるのか。
神から断絶されている苦しみ、求めても求めても神に出会えない苦しみです。
しかし、聖書はこの魂の渇きにあえぐわたしたちにイエス・キリストを遣わして、こう記しています。
「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」(黙示録22:17)