おはようございます。宿毛教会の石井佳奈子と申します。
わたしは広島県福山市より2年前、主人の転勤のためにこちらの高知県四万十市に引っ越してきました。
わたしは16年前に洗礼を受けました。続いて主人、長女、次女、と洗礼の恵みにあずかりました。
わたしが教会に通うきっかけとなったのは、長女が教会付属サムエル幼児園に通園するようになったことです。独身時代は体力に問題ないと思っていたわたしでしたが、2人の娘の出産を境に入院、手術を繰り返し、遠くに住む両親の助けを借りつつの育児になりました。主人はその当時仕事が大変忙しく、日々の育児になかなか参加できませんでした。今までと同じように育児も家事も十分にはできない自分をとても情けなく思っていました。いらだちや空虚感、さみしさでいっぱいだったように記憶しています。
サムエル幼児園では、園児の送迎に来た親御さんも参加できる聖書の学びが、一週間に一度行われていました。子供を通じてお友達になった仲良しのお母さんが参加していると聞いて、敷居の高かった教会の学びに、わたしは参加してみようと思うようになりました。今までは教会というと、「清く、優しく、芯の強い方の集まり」だと思っていました。最初は、マルコの福音書を皆で読み、祈り、自由に話せる雰囲気がそこにはありました。とても楽しみで待ち遠しい思いの学びになりました。隠し立てすることなく、何でも話せる大切な友達もできました。
長女に続き、次女も幼児園に通うことになりましたが、わたしが寝込んだり、骨折で動けなくなったりと送迎ができなくなると、牧師兼園長であった先生が、かわるがわる送迎をしてくださったこともありました。
次女が川崎病を患い「あと2日の命かもしれない」と言われた時には、わたしの知らない教会員のかたもみんなで祈祷会にて祈ってくださり声もかけてくださいました。ずいぶんと慰められ、励まされました。そして次女はとても信じられないことに、今まであった心臓の血管内のこぶが無くなったのです。共に大喜びしてくださったのはいうまでもありません。しかし祈りによって奇跡が起きたとは正直思っていませんでした。わたし達夫婦が医療者だったからかもしれません。しかし人間ではない何かが命を支配していることは、現場でいつも実感していることでした。神様はいらっしゃるとは思いましたが、それがイエス・キリストだと確信はなかったのです。
そんな時に聖書の言葉に出会いました。その箇所を読ませていただきます。
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して、言った。『先生、彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』」。(ヨハネ9:1-3・新改訳)
イエス・キリストの声が、わたしに聞こえたように思いました。わたしの至らなさで、この子をこのような目に合わせたのではないかと、ずっと心にかかっていたのです。けれども神様がわたしのためにこのことを起こしてくださったのだと思いました。
今では新しい土地で大学生活を始めている娘たちも、イエス様に祈り、教会に繋がっていることは、何よりの安心です。そしてわたし達夫婦もこの宿毛教会で皆様に温かく迎えていただき、信仰生活ができていることを感謝しています。