おはようございます。久保浩文です。高知県は、四国の半分の面積を占め、南には黒潮の流れる雄大な太平洋が望めます。近場で漁をする漁船や、はるか水平線の上を、大型船がゆっくりと太平洋を縦断していく姿を目にすることもあります。時折、高知新港に外国籍の巨大豪華客船が入港し、数時間停泊して、次の目的地に向けて出港していく姿は、まさに高層ビル、動くホテルのような外観です。このような豪華客船に乗って世界中を旅行できることは、素晴らしいことだと思います。
しかし、私が豪華客船を見て脳裏に浮かんでくるのは、いつぞや映画にもなった「タイタニック」です。大勢のセレブな紳士淑女たちに交じって、ひと組の若い男女のラブロマンスが展開されていきます。タイタニック号は、設備の豪華さもさることながら、当時としては安全対策にも重点をおいて造られ、「沈まない船」とも言われていました。客室や食堂には高価な調度品が置かれ、連日連夜催される宴会、そこでの贅沢な食事…。どこを見回しても、この船が氷山に接触して数時間で海の藻屑となってしまうなどということは想像できなかったことでしょう。この事故で1500人もの尊い命が失われた事を思うと、心が痛まずにはいられません。2012年4月は、タイタニックの遭難から100年を迎えたということで、犠牲者を悼んで追悼の会が催されました。私もその様子を映像で見て、とても感情を揺さぶられました。船体が傾きかけた時、船に乗り合わせた人たちはどれだけの恐怖を味わったことでしょうか。「沈まない船」のはずだったのに、絶対に安全なはずだったのに、この悲劇が起こったのです。
かつて、ガリラヤ湖を船で渡っていたイエス・キリストと弟子達は、突然の嵐に見舞われました。彼らの乗った船は、木造で手漕ぎの小さな漁船でした。大きな嵐の前にはひとたまりもなく沈んでしまいそうな小さな船でした。上下左右、波に翻弄されて、船もろとも湖の中に投げ出されそうになった時、弟子達は死の恐怖に震えながら船を必死に操っていました。彼らが助けを求めて主イエスを見ると、なんと、彼らの師匠は船の艫(とも)の方で熟睡していたのです。なぜ、この状況で眠っていられるのか、弟子達には理解しがたかったことでしょう。とにかく必死で主イエスに助けを求め、迫りくる風や波を静めていただきました。主イエスがお命じになると、風も波も直ちに静まり、直前まで荒れ狂っていた嵐はどこかに過ぎ去り、何事もなかったかのように、静かなおだやかな湖となっていたのでした。
主イエスは父なる神への全幅の信頼のゆえに、嵐に翻弄される船の中でも眠ることができたのです。その平安は、今度は主イエスを信じる信仰によって、わたしたちにも与えられます。主イエスは、風も波も静める事のできる御方だからです。この真理は人生の嵐においても同じです。どんなに頼りなさそうな船に乗っていても、主イエスと一緒にある時、それは「沈まない船」です。どんなに揺さぶられても、決して転覆したり、沈没したりすることはありません。人生という海において、人それぞれ、船の大きさも、通る道も、そして遭遇する嵐の大きさも違います。しかし、どんな状況であっても、どんな大きさであっても、主イエス・キリストとともにある船は「沈まない船」なのです。