おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。きょうはイエス・キリストの復活を記念するイースターの日です。キリスト教会にとって最も大きな記念日です。もし、キリストが復活されなかったなら、そもそもキリスト教会そのものが誕生していなかったことでしょう。
今朝はこの復活されたキリストと出会った人々を取り上げてお話したいと思います。
新約聖書の中にある四つの福音書には、どれも、十字架につけられ死んで葬られたキリストが、3日目に墓からよみがえった記事が記されています。その場合、キリストの復活を描く仕方に二通りのパターンがあります。
一つは、キリストを葬ったはずの墓が空っぽであったということを中心に描いた話です。特にマルコによる福音書は、その空になった墓の話で福音書が閉じられ、しかも、それを目撃した婦人たちの恐怖感で話が終わっています。
「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(マルコ16:8)
もちろん、これがマルコ福音書の本来の結びであるのかどうかには、様々な説があります。しかし、どうであれ、空になった墓の与えた衝撃が、読者に生々しく伝わってきます。
もう一つのパターンは復活のキリストが人々の前に姿を現した様子を描いた話です。必ずしもキリストが復活したから墓が空になったとは言い難いかもしれません。弟子たちがキリストの遺体を盗んだという疑いをさしはさむこともできるでしょう(マタイ28:11-15)。しかし、復活のキリストご自身と出会ったという体験は、キリストの復活を直接証言する話です。コリントの信徒への手紙を書いたパウロは、この復活のキリストに出会った人々の数は、12人の弟子たちはもちろんのこと、500人以上の人々に同時に現れたこともあったと記しています(1コリント15:5-6)。
そうした復活のキリストに出会った人々の中で、ルカによる福音書には、失意のうちにエルサレムからエマオに戻る二人の弟子の様子が描かれています。その一人の名はクレオパ、もう一人は無名の弟子です。
ルカによる福音書に記されたこの二人の話は、まず、二人の失望した様子が描かれるところから始まります。期待していたはずのキリストが、十字架に架けられてしまい、望みがたたれてしまった二人の顔は、暗い顔であったと記されています。
途中で出会った旅人が、実は復活のキリストご自身であることにも気がつかないくらい、彼らの心は失望感で押しつぶされています。
ところが、この話の最後へ来ると、出会った旅人が復活のキリストであることに気がついた二人はこういいます。
「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32)
復活のキリストと出会って、心が燃えるような思いで満たされたことが、生き生きと描かれています。実際には最後の最後になって、旅人が復活のキリストであることに気づくのですが、しかし、振り返ってみると、復活のキリストが聖書を解き明かす時に、すでに心燃やされるような思いがしたというのです。
復活のキリストとの出会い、とりわけ復活のキリストが解き明かしてくださる聖書の言葉には、心わくわくするような躍動感が感じられます。
このような生き生きとした復活のキリストとの出会いが、初代のキリスト教会を動かしていったのです。