おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。今週の金曜日はキリストが十字架にかけられたことを覚える受難日です。英語ではGood Fridayと呼ばれています。今回もキリストの十字架にまつわる人物を取り上げてお話ししたいと思います。
キリストが十字架におかかりになったとき、他に二人の犯罪人が同じように処刑されたと記されています。マルコによる福音書は、その二人を「強盗」と呼んでいます(マルコ15:27)。ここでいう強盗というのは文字通りの強盗ではありません。むしろ暴力によって民族解放を願う闘士といったらよいかもしれません。少なくとも、彼らの仲間は自分たちをそう美化して理解していたに違いありません。しかし、ローマ帝国にとっては、彼らはローマ帝国の転覆を狙う厄介な政治犯でした。そうであればこそ、極刑である十字架刑に処せられたのです。
『ユダヤ古代誌』や『ユダヤ戦記』を記したフラヴィウス・ヨセフスは、ユダヤ民族を滅亡へと導いた熱心党員のことを、この「強盗」という言葉で呼んでいます。
実際のところ、イエス・キリストを訴え出たユダヤ人たちは、総督ピラトに対してこう申し立てています。
「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」
もちろん、これはでっち上げの罪状です。しかし、キリストの処刑を願うユダヤ人にとっては、これほど好都合に総督ピラトの心を揺さぶる罪状はなかったはずです。イエスを釈放しようとして判決を渋るピラトに対して、ユダヤ人たちはこう迫っています。
「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」(ヨハネ19:12)
こう言われてしまえば、総督とてひくことはできません。キリストはローマ皇帝に反逆する「ユダヤ人の王」として処刑され、熱心党員と思われる二人のテロリストとともに十字架にかけられます。もちろんキリストは決して暴力で民族の解放を願う革命家ではありませんでした。
ところで、そのとき一緒に十字架にかけられた強盗のうちの一人が、キリストに対して心を開きます。熱心党の人々の目から見れば、武力も用いないイエス・キリストの運動は生ぬるく見えたことでしょう。だから、十字架に架けられた強盗のうちの一人は、最後までイエス・キリストをののしります。しかし、もう一人の強盗はそれをたしなめます。
おそらく、人生の最後の時になって、自分がしてきたことを深く思いめぐらしたからでしょう。特に自分と同じように十字架につけられたキリストの隣で、しかし、自分とは違う道を歩んできたキリストを見て、心動かされるものがあったのでしょう。彼はキリストにこう願います。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23:42)
この男の真摯な願いに対してキリストは答えます。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)
この男にとって、イエス・キリストとの出会いはこの時が初めてではなかったでしょう。巷で教えを説くキリストの姿を見かけたことがあったでしょう。あるいは直接姿を見ることはなかったとしても、噂は何度も耳にしていたはずです。しかし、人生の最後のこのときまで、ほんとうの意味でのキリストとの出会いはありませんでした。しかし、たとえ人生の終わりの瞬間であったとしても、イエス・キリストは救いへの道を惜しみなく開いてくださるのです。