おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
イエス・キリストと出会った人々の中には、ユダヤ人ばかりではなく、異邦人たちもおりました。
ユダヤ人からすれば、神から自分たちのところへ遣わされてくる救い主は、自分たちの民族の救い主である、という思い込みがありました。異邦人と接するメシアなど、思いもよらなかったことでしょう。まして徴税人や遊女、罪人など論外であったと考えられていました。
同じように、サマリア人についても、遣わされてくるメシアが、このサマリア人の救いなど心に留めるはずもないと考えていたことでしょう。というのも、ユダヤ人とサマリア人は交際すらしない仲だったからです。なぜなら、サマリア人は純粋のユダヤ人ではない上に、礼拝の場所も使っている聖書も、ユダヤ人のそれとは違っていたからです。
さて、きょう取り上げようとしているのは、そのサマリア人の一人の女性の話です。
キリストがサマリア人の土地を通ってガリラヤへ向かう時のことでした。旅に疲れたキリストが井戸のそばに座っていると、あるサマリア人の女性が井戸に水を汲みにやってきます。ちょうどお昼時の話です。
普通、太陽の照りつけるお昼には、女が一人で井戸に水を汲みに来るはずはありません。それだけを考えても、この女性が訳ありの女であったということが分かります。福音書によれば、この女性には5人の夫がいましたが、今一緒に暮らしている男性は夫ではないということです。
当時のユダヤ人の基準から考えれば、ふしだらな女というレッテルを貼られても仕方のない暮らしです。今、聖書を手にしてこの物語を読むわたしたちも、そういう目でこの女性のことを見ることでしょう。
確かに、事実は、この女は5人の夫と暮らす経験をもち、現在一緒にいる男性は夫と呼べる間柄ではないということです。そういう生活を褒めることはできないにしても、しかし、どうしてそのような生き方を選ばなければならなかったのか、その事情を想像してみることは大切であると思います。
もし、この女性が最初の結婚生活を幸せに暮らすことができたなら、5人の男性と結婚を繰り返すことはなかったでしょう。夫と死に別れたのかもしれません。あるいは、理不尽にも次々と夫に捨てられたのかもしれません。あるいは、捨てられるような弱さや欠点がこの女性にはあったのかもしれません。もちろん、克服できるような欠点であれば、二度目の結婚からはうまくできたかもしれません。しかし、現実はそうではなかったのです。
イエス・キリストはこの女性に、一杯の水を求めて語りかけ、会話はやがてまことの礼拝についての話に及び、ついにはやってくるはずのメシアの話にまでいたります。
この会話の中には、この女性の純粋な求道心が描き出されています。世の人々には、この女性には神を求める心などないと映っていたことでしょう。しかし、キリストの目にはそうではなかったのです。
キリストとの会話を通して、このサマリア人の女性には、救いを求める心がはっきりと表れてきたのです。
そればかりではありません。この女性は自分が確信したことを町の人々にも話して聞かせます。聖書は、町の人々はこの女性の言葉によってイエスを信じたと記しています。
人はキリストと出会うことで、救いを求める心が明らかにされ、神の救いを確信して、その救いの知らせを分かち合う人にまで変えられるのです。