おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
福音書の中に登場する様々な人物の中で、徴税人と罪人は、ほとんどセットになって出てきます。徴税人というのは、ローマ帝国のために、交通の要所で通行税の取り立てを請け負う人でした。本来は役人がするはずの仕事を、保証金を支払って請け負う仕組みです。
彼らが罪人と同列に呼ばれる理由は、二つありました。一つは、先に支払ったお金を確実に取り戻すために、必要以上に通行人から税を取り立てる者がいたからです。その詐欺まがいの取り立てのために、ユダヤ人からは罪人扱いされました。
しかし、もっと大きな理由はこうでした。同じユダヤ人でありながら、異邦人の王のために税金を取り立てるのは、まことの神だけを王とする信仰に反する行いだと考えられたからです。ユダヤ人としてそういう仕事につくこと自体が、信仰に背く背教的な生き方だと思われたのです。
さて、きょう取り上げるのは、徴税人の頭といわれるザアカイの話です。聖書の中では、ザアカイだけが徴税人の頭と呼ばれています。そして、その上に、福音書の数ある登場人物の中で彼だけが、背が低かったと記されています。
聖書が人の身体的な特徴を記すのは、それが他の人と比べて並はずれている場合だけです。ですから、ザアカイの場合も、ただ人と比べて、ちょっと小さかったという程度ではなかったのでしょう。やって来るキリストの姿を一目見ようとしても、背伸びをしたぐらいでは見えない背の低さです。
これはあくまでもわたしの想像ですが、ザアカイが徴税人という仕事を選んだのは、背の低さのために、他の仕事につくことができなかったのかもしれません。しかし、世間は容赦なく、このザアカイを罪人呼ばわりします。考えても見れば、随分気の毒な話です。好きで小さく生れたわけではないのに、それがために他の人のように仕事につくことができないのですから…。
このザアカイ、イエス・キリストがやってくると聞いて、先まわりしていちじく桑の木の上に登ります。誰にも遮られることなく、キリストを見たいと思ったからでした。そこまでして見たいと思ったのは、ただキリストの評判を耳にしていたからだけではなかったでしょう。単なる好奇心からとは思えません。きっと心の奥底で何か求めるものがあったからでしょう。
この木の上から見下ろすザアカイを見上げて、イエス・キリストはおっしゃいます。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19:5)
この言葉に、ザアカイは急いで木から降り、喜んでイエスを自分の家に迎え入れたとあります。このことがザアカイの人生にとってどれほどの喜びであったかは、ザアカイの言葉と態度で分かります。ザアカイは言いました。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
だれかから言われて、そうしようと決めたのではありません。自発的にそうしたいと思ったのです。福音書の登場人物の中には、イエス・キリストから、財産を貧しい人々に施すように勧められて、悲しい顔で立ち去った若者がいます。しかし、ザアカイは言われるまでもなく、心から施したいと思ったのでした。それは、キリストの呼びかけの中に、神の愛を聞きとったからでしょう。