おはようございます。芸陽教会の宮武輝彦です。
さて、今日は、イエス・キリストを最初に人々に伝えた洗礼者ヨハネのことをお話ししたいと思います。この洗礼者ヨハネは、人々にこう叫びました。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコによる福音書1章7節、8節)と。
この「洗礼(バプテスマ)」とは、水のなかに体を沈めることで、キリスト教会では、この水をしるしとして、洗礼を授けます。それは、入会の決心ですが、それ以上に大事なことは、この洗礼者ヨハネが、証ししたように、イエス・キリストは、「聖霊で洗礼を授けてくださる」ということです。
この「聖霊で洗礼を授けてくださる」ということは、どういうことかと言うと、わたしたちの心も、魂も、その心の深いところまで、神さまからの霊の働きが隅々まで行き渡るということです。ですから、水で体を洗うことによって、神さまが直接、その人の心に働くところに、神さまの清さが現れていることをしるしているのです。
ですから、今日、キリスト教会では、この洗礼の仕方について、いろいろな様式があり、川の中で行ったり、会堂の浴槽の中で行ったり、また、器(洗礼盤)に入った水を頭に垂らす方法で行ったりします。そして、一番大事なことは、くり返しますが、イエス・キリストが、「聖霊で洗礼を授けてくださる」ことなのです。
イエス・キリストは、十字架の死から三日目に復活された後、弟子たちに度々現れて、ご自身が、神さまの約束されたほんとうの救い主であることを証しされました。
そして、いよいよ、イエス・キリストが天に上げられる前に、弟子たちに近づいてこう言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章18節-20節)と。
イエス・キリストは、十字架の上で、神さまとその道をはずれた罪人の仲立ちとして、その身をささげてくださり、天と地をつなぐ橋となってくださいました。
今、わたしたちは、このイエス・キリストを、ほんとうに神さまのひとり子であり、この方を受け入れるとき、わたしたちも、神さまの子として、そのいのちの恵みの中を生きることができます。
「洗礼」は、そのことをしるす、神さまの恵みによる誓いのしるしです。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」とは、イエス・キリストにおいてご自身を表された神さまのお名前によって、ということです。それは、ただ、神さまの恵みによるもので、イエス・キリストの霊の働きによって、内側からきよめられることを、外からしるすものです。ですから、イエス・キリストの弟子の一人、ペトロは、洗礼についてこう言いました。「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」(ペトロの手紙 第一 3章21節)と。
洗礼を受けると清くなるのではなく、洗礼を受ける決心こそ、主の霊がともにいることのしるしなのです。ですから、その霊の清さにならって、日々、道をはずれた罪の思いを清めてください、と祈るのです。
天に上げられたイエス・キリストは、きのうも、今日も、いつまでも、わたしたちと共にいてくださるほんとうの神さまであり、わたしたちをいつも守っていてくださるお方です。あなたも、神さまの霊の導きのうちに、心を導かれて、イエス・キリストの救いを知ってくださいますように、切に祈っています。