お元気にお過ごしですか。筑波みことば教会の小堀です。今日もご一緒に神様を見上げて歩んでまいりましょう。
マリヤとヨセフは、本当に神と人との助けを必要としていました。しかし何の助けも得られませんでした。マリヤは、自分が神様から特別に目を留められている、そういう者であること、また自分の内に宿っている者が、救い主である事を知っていました。でも、私は、神から見捨てられている、そんな不安を味わったのです。
マリヤとヨセフは、神の助けも、誰にも助けてもらえない現実の中で、唯必死に、今為すべきことに心を集中していました。不安で一杯なはずなんです。その不安を神に訴えながら、全てを支配しておられる神様を信頼して、その瞬間その瞬間を精一杯生きていました。そして、彼らは、神の助けが見えない不安の中でも、一歩一歩、歩んで行く中で、実際に神様の助けを体験したのです。そしてそれは、私たちの人生にも当てはまることではないでしょうか。
私たちは苦しみに合うと、本当に神は、傍にいて下さるのか、疑ってしまう事があります。私たちの経験値では、苦しみは神を否定する格好の材料です。しかし、そうではありません。イエス様の十字架を思い出して下さい。イエスは十字架で、「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか」と言われました。死にゆくイエスを神が奇跡的に助け出す、人々はそれを期待していました。しかし、そのような事は全く起こりませんでした。イエスは苦しみを受けて死なれました。神様が働かれた形跡すらありませんでした。私達の経験だけを頼りに神について考えるならば、「神はいない」、当然こういう結論に至ってしまうと思います。神はずっと、イエスを見放していた、そのようにしか見えませんでした。しかし、復活によって全てが明らかになりました。イエスを神が愛していた、そのことが明らかになりました。
あなたの苦しみの中にイエス様は共にいて下さいます。どうぞ、このお方を信じて下さい。