いかがお過ごしでしょうか、国立聖書教会の野島邦夫です。
わたしたちは苦しい時、つい嘆きます。独り言で、また誰かに向かって。3年前の大震災の中で多くの人たちが苦しみ嘆きました。そして、それを言葉に残した人もいます。
「3月 東北はまだ寒かった いつもと同じ昼を迎え いつもと同じ午後を過ごすはずだった/その時から わたしたちの言葉は変わってしまった 悲しみ 慰め 怒り 救い 諦め わたし達は言葉から 意味を失った (中略)そして今 稲を植えられない田に 雨が降りかかる 6月は祈りの月 わたしは散らばったガレキを 拾い集めているところだ」
秋山公哉さんの「ガレキ」という詩の初めと終わりの部分です。何と深い絶望でしょう。ガレキと化した街の中では、累々とガレキが塞いでいる田畑を前にしては、はじめ嘆く言葉さえ出ません。これから希望があるのでしょうか。かける言葉が見つかりません。
このような大規模で深刻な苦しみは、わたしたちを滅多に襲うことはありません。いや、規模は小さくても、苦しむ当人一人一人の深刻さには違いがありません。大震災で幼子を失った一人の人の苦しみと、毎日のように耳にする交通事故で幼子を失った一人の人の苦しみに違いがあるのでしょうか。苦しみや悲しみは溢れています。どこに目を向ければ絶望から脱出できるのでしょうか。