ごきげんいかがですか。綱島教会の川杉安美です。
わたしは高校生の時に教会に通い始めました。だんだんお祈りすることも覚えました。そんな中、お祈りは必ず聞かれるということも教えられました。しかし、いつでも自分が祈り願ったことが実現するとは限りませんでした。自分の信仰が弱いからか、自分の熱心が足りないからか、神様は自分のことは顧みないのか、そんなことも考えました。けれども、あるとき、たとえで教えられたのです。もし、自分の願った通りのことがいつでもそのままかなえられてしまうなら、神様はまるで自動販売機みたいになってしまうと。
たとえば、親は子供がいくら願っても、子供にとってよくないもの、危険なものは与えません。あるいは、もっとふさわしい時期や機会があるなら、その時まで子供を待たせます。それが本当の親の愛というものです。祈りには三つの答えられ方があると言います。一つは願ったとおりになる場合、二つ目は今は駄目だけれどもふさわしい時期にかなえられる場合、三つ目は明確に駄目だ、あるいは別のものを与えるという答え。最初のころは、何だか祈りが聞かれないことを理屈をつけて言い訳されているみたいに思えました。
しかし、これまでの信仰生活を振り返ってみると、やはりなるほどと思わされるのです。むしろ、もしあの時にそのまま願いどおりになっていたら、今の自分はないということもあります。そこに神様の深い導きと知恵を覚えざるを得ません。神様に祈り、そして注意深く神様がどう答えられるのか、それを見い出していきましょう。人間の狭い考えを越えた、神様のすばらしい導きが分ってきます。