お元気にお過ごしですか。私は筑波みことば教会牧師の小堀昇です。今日も主を見上げて歩んでまいりましょう。
さて、イエスは、洗礼者のヨハネから洗礼をお受けになられました。
「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」。マルコによる福音書の1章9節で聖書はこのように語ります。
イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられたということ、勿論これは、イエスが罪の意識をもたれたということではありません。イエスの受洗、イエスの洗礼は罪の悔い改めの洗礼ではありません。
イエスご自身が罪を悔い改める必要は一ミリもありません。宣教のご生涯のスタートとしての、これは洗礼だったのです。
「しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」。マタイの3章15節で聖書は語ります。
イエスは、罪人の罪の身代わりとして、十字架で死ぬために、この地上に来られ、洗礼を受けられました。
「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」ヘブル人への手紙の4章で聖書は語ります。(15節)
そのために、イエスは、罪人の経験するあらゆる事柄を、一人の人間として経験されたのです。イエスは、罪の世界に生きるわたし達と共に生きて、わたし達を罪のこの世界から救い出すために、敢えて、洗礼をお受けになられました。だからイエスはあなたの弱さを、あなたの苦しみを自分のこととして理解してくださいます。どうぞあなたも、イエス様の懐にとびこんでください。あなたの弱さを受け入れてくださる、あなたの苦しみを受け入れてくださるイエス様と共に、人生を歩んでください。そうすれば、また新しい人生が開かれます。それではまた御機嫌よう。