ご機嫌いかがですか、勝田台教会の坂井です。
わたしたちの教会のある姉妹が伝えてくださいました。「先生、毎日本当に心が荒んでいく気がします。効率ばかりが重んじられる労働の現場では、神様のことを見失いそうになってしまう…。」
わたしたちは、多かれ少なかれ同じような日常を過ごしているのではないでしょうか。「神様を見失いそうだ」という感覚は、まだ信仰を持っておられない方には共感できないかもしれませんが、それは、自分が霊的に飢え渇いているということを表す表現です。皆さんにも、そういう飢え渇きはありませんでしょうか。そういう、自分の霊的な飢え渇きのサインに気付けている人はまだ幸いです。もっと深刻なのは、気付けないことです。あまりにもこの荒んだ世の中に呑み込まれてしまって、自分の魂が「渇いている」ことすら、忘れてしまっていることです。渇きすぎると、渇いていることって忘れるんです。
イエス様の呼びかけに聞いていてほしいと思います。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。…耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」(イザヤ55:1-3)と招いておられます。命の水の源である主イエスが、今日わたしたちの心が渇くときに、愛と慈しみと慰めによって、豊かに潤わせてくださいますようにと願います。本当に涙も涸れてしまった方もいらっしゃるでしょう。その心に、命の泉を与えてくださいますように。