ご機嫌いかがですか、勝田台教会の坂井です。
わたしの父はクリスチャンではありません。それで、時々こんな風に言ってわたしにいじめてきます。「宗教なんていうのは、結局は弱い人間がすがりついているものだろ」と。わたしはこういう声に、無理に反論しようとはしません。聖書を学べば学ぶほど、確かに父の言うとおりだな、と。わたしたちは本当に弱くて、イエス・キリストの助けにすがりつくしかないのだなと、つくづく思わされるからです。
わたしの父の声は、そういう「弱さ」を克服できないことを恥とする感覚から出てくるのでしょう。だけども人には、自分の「弱さ」を覚えずにいられない時が必ず訪れます。 面白いことに、聖書の言語においては「弱くなる」と「病気になる」というのは同じ言葉です。きっと昔からたくさんの人が、病気になることで初めて打ち砕かれて、神にすがりつくよりないおのれの根源的な「弱さ」ということを、思い知らされたんだと思います。
旧約聖書の詩編6編3節にこんな祈りの言葉が残されております。
「主よ、憐れんでください わたしは嘆き悲しんでいます。 主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ わたしの魂は恐れおののいています。 主よ、いつまでなのでしょう。」
人間なんていうのは、自分で自分を治せない、無力な存在なのです。だから昔から、人は神にすがりついてきたのです。