聖書を開こう 2013年3月7日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 知的興味にあふれる偶像の町で(使徒17:16-21)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 高校生のころ、世界史の授業だったか倫理社会の授業だったか忘れましたが、学問というのはお金と暇がないと発達しないのだ、ということを教えられました。その典型的な例が古代ギリシアの学問の発展に見られるというのです。
 その説が正しいかどうかは別として、古代ギリシアが様々な学問を生み出していったというのは事実です。しかし、同時に、これだけ発展した学問と文化を生み出した場所でありながら、おびただしい偶像に満ちていたというのもほんとうです。不思議なもので、お金と暇が学問を生み出していくのと同じぐらい、様々な偶像も生み出しているように思われます。逆説的ですが、偶像はお金と暇を持て余すほどの文化がある証拠かもしれません。

 さて、きょうの話はギリシアの古代都市であったアテネでの出来事です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 17章16節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。

 先週はベレアでの出来事を学びました。ベレアでは素直で熱心な改宗者たちを与えられて、順調に伝道活動が始まりました。しかし、テサロニケからやってきたユダヤ人の反対者たちによって、パウロはシラスとテモテをベレアに残したまま町を出て行かざるを得なくなりました。

 パウロが向かった先は、あの有名な町アテネでした。ベレアからの距離は直線でも300キロ以上にも及ぶ長い道のりです。
 パウロが訪れた時代のアテネの町は、政治や経済の上ではかつてのような勢いは既にありませんしたが、しかし、依然として高い文化の町でした。この町はかつてプラトンやアリストテレスが活躍した場所で、哲学が盛んなことで有名でした。パウロが訪れたのはプラトンやアリストテレスの時代からはずっと後のことですが、それでも、依然として哲学の盛んな町であり続けました。後でも触れるとおり、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者がパウロと討論したとあります。

 アテネに着いたパウロは、この町でシラスとテモテがやってくるのを待っている間にも、福音について語らざるを得ない思いでいっぱいになります。というのも、このアテネの町に満ち溢れる偶像を見て憤りを感じたからです。パウロは異教の町々、至るところで異教の偶像を見てきたことでしょうから、何もアテネで初めて偶像を見たというわけではないはずです。にもかかわらず、大きな憤りを感じたのは、この町がもつ文化的な教養の高さと、いたるところに置かれた偶像とが、あまりにも不似合いで理解しがたかったということがあるかもしれません。
 考えても見れば、教養が高くなるほど、偶像などに頼らなくなりそうなものですが、しかし、人間の現実はそうではありません。教養が高くなる分、偶像にまつわる様々な妄想も高度化してくるのかもしれません。

 いずれにしても、パウロは町のいたるところにある偶像を見て黙っているわけにはいきませんでした。しかし、パウロはその憤りを、いきなり町に住む人々にぶつけていたというわけではなさそうです。パウロの伝道活動がどこの町でもそうであったように、まずはユダヤ人の会堂での議論から始まります。おそらくパウロの憤りは、偶像そのものに対してもそうですが、それ以上に、そういう偶像に囲まれながら、その町に平然と暮らしを続けているユダヤ人たちにも向けられていたのかもしれません。
 パウロの討論相手は次第に広がっていきます。アゴラと呼ばれる広場では、様々な教えの説教者たちが活躍していたように、パウロもそこでアテネの人たちを相手に論じあいます。こうして、パウロの教えはやがてエピクロス派やストア派の哲学者たちの目にも留まるようになって、彼らとも討論を重ねるようになります。

 使徒言行録はこの二つの学派の哲学者たちがどのような人生観をもっていたのか、またどんな教えを説いていたのかということについては何も記してはいません。一つには、使徒言行録の読者はそれを当然知ってるはずなので、説明する必要がないと考えたからかもしれません。しかし、それ以上に、使徒言行録の著者にとっては、彼らがキリスト教をどう見たのか、ということの方が関心深かったようです。彼らのキリスト教についての受け止め方をまとめて、「『このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか』と言う者もいれば、『彼は外国の神々の宣伝をする者らしい』と言う者もいた」とまとめています。

 哲学者たちは高い教養と関心を持っていましたから、当然、目新しい教えの説教者に対しても関心を寄せました。しかし、彼らはパウロの教えを「このおしゃべり」としか受け取ることができなかったということが一つです。
 ここで「おしゃべり」と訳されているのは、「スペルモロゴス」というギリシア語で、もともとは「鳥が種を拾い集めること」をさす言葉でした。やがてそのように市場で落ちたものを拾い集める者を指す言葉となり、ついには知識を拾い集める者、またそうした薄っぺらな知識を持つ者を指す言葉となりました。彼らには、パウロの教えは拾い集めた寄せ集めの教えとしか聞こえなかったということです。

 また、別な人たちは、パウロのことを「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」としか受け止められなかったと使徒言行録は記しています。哲学者にとって、どんなに説明を尽くしても、それは所詮、外国の神々をこのアテネの町に持ち込もうとする試みとしか映らなかったようです。つまり、イエスという神と復活(アナスタシス)という女神についての話としてしか受け止めることができなかったようです。

 もちろん、すべての哲学、すべての教養を否定するつもりはありませんが、しかし、真の神を知ることを妨げる教養は、いったい何のためになるのでしょうか。

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