聖書を開こう 2013年2月7日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 何のための宗教か(使徒16:16-24)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 どこの世界でもそうだと思いますが、新しくキリスト教が入って行くところでは、必ずと言ってよいほど土着の宗教との間で摩擦が起こります。信じているものも、価値観も異なる者同士ですから、摩擦や対立が起こるのは当然と言えます。
 しかし、その対立は、必ずしも自分の信じる宗教に対する純真な思いから出てくるとは限りません。宗教に付随した権利や利益を失うことへの恐れから、外来の宗教を排斥するという場合もあります。
 きょう取り上げようとしている個所では、キリスト教と土着の宗教とが衝突しますが、しかし、それは必ずしも純粋に宗教的な真理を巡っての対立ではありません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 16章16節〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。

 前回から、マケドニア州へ足を踏み入れたパウロたちの伝道旅行の様子を学んでいます。最初に訪れた町はフィリピでしたが、そこで早くも一家で洗礼を受ける家族を見出しました。きょう取り上げるのは、その同じフィリピでの出来事です。
 紫布商人であったリディアがパウロの話を聴いて回心した祈りの場に、今回も再びパウロたちは向かいます。
 祈りの場に向かう途中で、パウロたちは占いの霊にとりつかれている一人の女奴隷に出会います。ここで使われている「占いの霊」という言葉は、ギリシア神話に登場する巨大な雌の蛇ピュトンからくる言葉で、「ピュトンの霊」という言葉です。この大蛇はデルフォイの神託所の番人で、人間に神のお告げをしていたといわれています。そのピュトンの霊がこの女奴隷にとりついて、パウロたちに出会うと、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫ばせたのです。もちろん、「ピュトンの霊」などというものが実際に存在するのではなく、それは悪霊の働きの一つにすぎません。
 かつてイエス・キリストが会堂で教えておられたとき、悪霊がイエスに向かって「(お前の)正体はわかっている。神の聖者だ」と叫んだのと似ています。
 ヤコブの手紙の中には、「悪霊どもも(「神は唯一である」と)そう信じて、おののいています」と書かれていますが(ヤコブ2:19)、頭で理解しておののいているということと、心から信じて信頼していることとは違います。
 悲しいかな、この女奴隷は悪霊の言わせるがままに、正しいことを告げてはいますが、まことの信仰を持っているというわけではありません。
 そして、もっと悲しいことに、この女奴隷は主人たちにいいように利用されていました。彼女が告げる託宣が、主人たちに利益をもたらしていたからです。そもそも奴隷は主人の財産でしたから、彼女の占いがどれほど利益をもたらしたとしても、彼女自身がそこから直接得るものは何も無かったはずです。搾取されるばかりです。ただ、主人に利益をもたらしている限りは、身の安泰は保障されていたというに留まります。
 さらに注意深く読むと、彼女の利益をほしいままにしていたのは、一人の主人ではありませんでした。「主人たち」と複数形で記されている通り、何人もの主人から利益を巻き上げられていたのです。

 この女奴隷は一度ならず、パウロがそこを通るたびに、幾日にもわたって、同じことを繰り返し叫んでいました。使徒言行録は「パウロはたまりかねて」と記しています。パウロの苛立つ思いが伝わってきます。しかし、パウロが苛立ちを覚えたのは、女奴隷その人の存在ではなく、女奴隷の口を通して語る悪霊そのものに対してでした。ですから、パウロが語りかける相手は、女奴隷ではなく悪霊に対してです。パウロはこの女奴隷を支配する霊に向かって言いました。

 「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」

 さて、パウロの言葉によって、この女奴隷は悪霊の支配から解放されたのですから、この事は喜ばしい出来事となるはずです。しかし、事態はそんなに単純ではありませんでした。この女奴隷を支配していた主人たちにとっては、この女奴隷が悪霊から解放された喜びよりも、自分たちの利益が失われたことの方が大きな関心事でした。
 確かに、自分たちの利益が失われたのに、無関心でいられるはずはありません。黙って事態の推移を見守るのではなく、積極的な対抗措置を講じました。それはパウロたちを町の治安に害悪をもたらす者として、政治的に訴え出ることでした。彼らにとっては、パウロの伝える福音が真理であるかどうかという問題よりも、いかに町を混乱させるものであるのかという点で争い、パウロたちを町から追放することを企んだのです。

 しかし、実際にはパウロたちは町を混乱させたわけではありませんでしたから、彼らの主張は巧妙なものでした。まず、パウロやシラスがユダヤ人であることを取り上げ、巧みに議論をすり替えます。

 「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」

 ちょうどその頃、ローマではクラウディウス帝によってユダヤ人がローマから追放されていました(使徒18:2)。ですから、ユダヤ人はローマ帝国を混乱させる悪徳分子である、と印象付けることができれば、町全体を味方に引き入れることは簡単です。パウロとシラスはあっけなく投獄されてしまいます。おそらくテモテやこの書物の著者であるルカもこの場に居合わせたのでしょうが、彼ら二人は明らかにユダヤ人とは見えなかったので、難を逃れたのでしょう。

 こうして、フィリピでは第一号のキリスト者の家庭が誕生した喜びもつかの間、キリスト教に対する逆風も同時に経験することになりました。そこには利益を追求して止まない人間の欲深さが見え隠れしていました。しかし、神はこのような困難な時をも祝福の時と変えてくださいます。この事件がどんな展開を迎えるのか、次回の学びで取り上げたいと思います。

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