熊田なみ子のほほえみトーク 2013年11月12日(火)放送

熊田 なみ子(スタッフ)

熊田 なみ子(スタッフ)

やさしさの発見

 「なみこはやさしい」と、遠くの地でちょっと辛い状況にある一度も会ったことのないリスナーにいただいた一言。自分の名前を書いてもらうと嬉しいものですね!最近は番組で実名を呼ぶことはほとんどありませんから。体調を崩していらっしゃるので「いかがですか?」とお伺いした時のお返事です。
 「地球にやさしい」「お腹にやさしく」、「やさしさ文庫」とあれこれやさしい言葉は行き交うのですが、私たちの生きる現実は?あなたの周りはやさしさがいっぱい?本当のやさしさって…どういうことでしょうね。

 寄り添って共に生きることも、逆に離れていてあげることも、厳しく戒めることも、黙って忍耐することも、皆「やさしさ」から来るのでしょう。それに「やさしさ」の受け止め方もそれぞれに違います。勇気を出してやさしく語りかけたつもりでも受け止める側は大迷惑になったり…。二匹のヤマアラシのジレンマのお話も思い出しますよね。寒さの中離れすぎては寒い!でも近寄りすぎると痛くて大変。上手な他人との距離感の見極めはどうでしょう?関係が繋がっていないと不安…最近は、若者のネット依存症が50万人以上と言われたりしてます。

 私はふとあの一番弟子ペトロの裏切りを思い出しました。よく以前リクエストもいただきました「ああ主のひとみ、まなざしよ」という賛美歌243で歌われる場面です。三度もイエスを知らないと言い張るペトロに向けられたイエスさまのまなざし。「主は振り向いてぺトロを見つめられた。ぺトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(ルカ22:61-62)。ここの場面と「やさしさ」が私の中では繋がってきます。
 この場面は絵画にもなっていますね。特にレンブラントの「聖ペテロの否認」(1660年・アムステルダム国立美術館)は有名です。絵画の全体を良く見ると、右上から見つめるまなざしがあるのですがそれが自分自身にも向けられる最高の究極のやさしさ、キリストのまなざしとして繋がってくるのです。そこから「人間の弱さ、罪深さ、ゆるすこと、ゆるされること」という言葉が心に響きます。人生を生きる中でどうしようもなく難しくこじれる人間関係…競争社会の中で互いを傷つけあう悲しさがあります。

 私たちは偽りのないやさしさに触れることの出来る自分の居場所を探していないでしょうか?
 私にとってのやさしさの溢れる一番の居場所はどこだろうかと考えます。ありのままの自分が神様の前に一人立たされる礼拝の場所かな…と。心の奥深くまですべてご存知のイエスさまが共にいてくださる場所、罪を告白し、赦しをいただく場所、神の家族が共に招かれ、神様の愛に包まれる場所。こここそがやさしさの原点かな?と思います。私たちはみな等しく救い主を必要としていますから。礼拝で罪を告白し、祈り、賛美し、みことばを聴く、この時間こそ誰もが平等に神様の前に立たされ、愛に包まれる時です。ここにこそ神様がくださる本物のやさしさの発見があるのではないかと思うのです。礼拝的人生観の確立です。
 聖書の中にはこのようなみことばがあります。

 「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙4:14-16)

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