熊田なみ子のほほえみトーク 2013年4月2日(火)放送

熊田 なみ子(スタッフ)

熊田 なみ子(スタッフ)

神様 もう少し待ってください

 この前の日曜日はイースター。死は終わりではないという聖書の語る「復活のいのち」。この春の花々が美しい季節に皆で教会のお墓に行きます。天国に凱旋したあの方、この方…のことを懐かしく思い出します。私たちが身近な家族や親族の死を経験するたびにイースターの恵みもまた深く心に刻まれていきます。

 聖書の学びをしていた学生の頃、夏になると全国の教会に伺い、伝道のお手伝いをするプログラムがありました。その夏季伝道の帰り道、交通事故で突然死んでしまったK君。彼の婚約者Mさんのあまりにも突然起こった出来事を抱えて憔悴された姿は痛々しく「神様なぜ?」という想いが繰り返し襲ってきたものです。「いのちの時間」はそれぞれ違っていますから、交通事故や突然の事故、病気など、若くても天国へと帰る者たちがいます。
 もう一人のK君も若き日に天国へ。葬儀の時、おばあちゃんが孫の死を悲しむ後姿を見るのがとても辛かったです。彼は結婚したばかりで小さな娘はまだ2歳。亡くなる1週間前に会いに行きましたが、本人に厳しい病気の状況は伝えられていて、天国への希望をしっかりと堅く信じていました。共に賛美歌を歌い祈りました。その後、妻は悲しみを乗り越え、娘は立派に成人し、今も恵みの中を守られてイエスさまと共に歩んでいます。

 そして、つい最近も教会の友から働き盛りで天国へ凱旋された女性の捧げたお祈りの言葉を知らされました。ご遺族の了解を得てお伝えすることにしました。膵臓癌が発見された時,医師からあと3ヶ月の命と宣告され、次のように祈られたのです。
 「では 神さま よろしくお願いします。私はあきらめてはいません。『あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるように逃れる道をも備えていてくださいます。(聖書 コリントの信徒への手紙一 10章13節)』今までの人生において、この御言葉はいつも真実でした。そして、これからもです!私のためにいったいどれだけたくさんの人が、祈って下さることでしょう。ただただ感謝です。神さま、天の御国は魅力的でいつの日か行くところですが、もう少し待ってください。この地上で愛する者たちと共に過ごす時間を与えてください。神さまのために奉仕する喜び、人のために自分が役立つことが出来る喜びをもう一度与えてください。今日から始まる治療を神さまが豊かに用いて祝福してください。」と。

 この祈りを捧げられたのは、国方恵子さん(日本キリスト改革派宝塚教会牧師夫人)です。恵子さんは御国を望みつつ、愛する主に祈られました。発病した2010年8月、治療が開始される時、元気なうちに皆にメッセージをと願われ、ご家族だけでなく、毎週教会学校に集う可愛い子どもたちにも語りかけてくださいました。
 「愛する子どもたち。恵子先生は一足先に神様のところ、天の御国に行きます。神様のこと、天の御国のことは今まで何度もお話しましたね。今ここで皆さんとお別れするのは寂しいですが、今度は神様の天の御国で会えるのを楽しみに待っています。これからも神様のことをいっぱいきいて、神様と一緒に歩んでくださいね。」

 そして、「神様、もう少し待ってください」との祈りは叶えられ、地上での命は、その後何と2年半も神様からいただけたのです。恵子さんを愛する方々は、別離の寂しさや悲しみはあっても、今はもう苦痛から開放され、天国で愛する救い主イエスさまと平安のうちにあると感謝しておられます。

 では最後に、番組からの今日のみことばをご紹介しましょう。

 「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
 わたしたちの地上のすみかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです。
 それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(コリントの信徒への手紙二 4:16-5:10)

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