おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
真面目な人というのはどこの世界にもいます。きょう取り上げようとしている人物は、真面目を絵に描いたような人です。常日頃から、永遠の命について真面目に考えていました。
永遠の命というのは、ただ長生きしたいという願望ではありません。ユダヤ人であったこの人が願っていたのは、罪の世界から解放されて、まことの神の前で神と共に生きることです。言いかえれば、神の御心に適った世界が完成し、自分もその新しい世界の一員として、終わりのない神の国で、神の御前に生き続けることです。そのことを真剣に願っていたのです。
しかも、この人は晩年になってから、そんなことを考え始めたのではありません。まだ若い青年です。この世をはかなんで、宗教的な人生の問いに没頭していたのでもありません。ユダヤの議員として、地に足の着いた働きをしていました。お金にも困るということもないお金持ちでした。
今の時代なら、仕事も地位もお金もあれば、若い青年がそんな人生の問いを真面目に考えるなどということはないでしょう。この人はそれぐらい真面目を絵に描いたような人でした。
悩みに悩んだこの問いを、この青年はイエス・キリストに投げかけました。
「先生。永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(マルコ10:17)
この問いの前提には、根本的な誤りがありました。それは、何かをすれば、その報いとして永遠の命がいただけるという発想です。その発想の裏には、自分には永遠の命に値するような、何かができるという自信があったのです。
イエス・キリストからいただいた答えは、ユダヤ人なら誰でも知っているような答えでした。それはモーセの十戒を守れというに等しい内容でした。そんなことなら、幼いころから守っていますと、この青年は胸を張って言うことができました。
しかし、たたみかけるようにイエス・キリストはこの青年に命じます。
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マルコ10:21)
青年は顔を暗くして、イエスの前から立ち去ってしまいます。持ち物を売り払うことも、貧しい人々に施すことも、キリストに従うことも、何一つとしてできませんでした。十戒を守ってきたとはいいながら、表面を舐めるような仕方でしかなかったのです。そのことを誰よりも自覚していたのは、この青年本人です。永遠の命に値することを一つたりともできない自分と向き合うときに、悲しみながら立ち去るしかありませんでした。
イエス・キリストはおっしゃいます。
「神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マルコ10:25)
しかし、金持ちは救われないとはおっしゃいません。人にはできないが神にはできるとおっしゃいます。そうです。何かをしたから永遠の命を手に入れるのではありません。何一つ神を満足させることができないからこそ、神が成し遂げてくださるのです。
この青年のその後について、聖書には何も記されてはいません。それでも自分には何かができるはずだと、この青年が思い続けていれば、永遠の命には与ることはできなかったでしょう。しかし、もし人生のどこかで、この発想の間違いに気がついたとすれば、きっと助けを求めて再びキリストのもとにやってきたことでしょう。