おはようございます。清和学園の後登雅博です。
「新しいことを学ぶのに、遅すぎるということはない。」英語の勉強で出てきたフレーズの日本語訳です。残念ながら、肝心の英語のフレーズを思い出すことが出来ませんが。せっかく覚えたことも、使い続けなければいつの間にか忘れてしまいます。ともあれ、忘れることはあるにしても、わたし達はいつでも新しく始めることができるのです。
さて、「新しい」という言葉から思い出す聖書の言葉があります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(2コリント5:17)わたし達が新しい者に生まれ変わるということは、新しく何かを学ぶということとは決定的に違います。なぜなら、一生懸命学んだことでも、時がたてば忘れてしまうことがあるからです。そして、何かを新しく学び始めても、その学びを継続させるには強い意志が必要だからです。しかし、新しく生まれ変わるということは、根本的に存在が変化してしまうことなのです。「初めに神は天と地を創造された。」(創世記1:1)と聖書の初めに書いてありますが、キリストに結ばれるとは、天地創造のように、まさに「新しく創造された」ということなのです。
天地創造が神様お一人の仕事であったように、キリストに結ばれるということも、神の主権的な働きです。なにしろ、新しく生まれ変わるとは、「キリストと結ばれる」ことによって生じることだからです。つまり、キリストがわたしに働きかけてくださることなのです。わたし達は、キリストの働きかけに対して、受け止めるだけなのです。ですから、わたし達が努力して、キリストに結び付くというのではありません。また、時間がたてば忘れてしまうようなものではなく、古びてしまうようなことでもないのです。
どんな方にも、親が存在します。もしかしたら、親との関係の悪い方もいらっしゃるかもしれません。既に親を亡くした方もいらっしゃるかもしれません。しかし、どんな親でも、紛れもなくあなたは、あなたの親との結びつきの中で生まれてきたのです。あなたが存在するということは、あなたは誰かに望まれて生まれてきたということなのです。誰も、自分一人の力で生まれてくる人はいません。また、孤独の中で生まれてくる人もいません。あなたの誕生は、誰かの見守りの中でなされた誕生なのです。
肉体の誕生に対して、キリストと結ばれて生じた誕生は、霊的な誕生と言えます。なぜなら、わたし達はすでに、誰かの子どもとして生まれているのです。にもかかわらず、また新たにキリストと結ばれるからです。キリストとは、真の神であり、今はわたし達の目には見えない方です。目に見えないキリストと結ばれるというのですから、それは霊的な誕生なのです。そして、真の神であるキリストと結ばれるのですから、わたし達が「神の子どもとなる」ということなのです。
神の子どもの特徴とは何でしょうか。それは、神に愛されているということです。そして、神の愛を知っているということです。神に愛され、神の愛を知っている。ここには、神とわたしとの相互関係があるのです。もちろん、神の方がわたし達に向かって手を伸ばし、わたし達を神のもとへと引き寄せてくださったのです。わたし達が誰かに望まれ、誰かに見守られながら生まれてきたように、神がわたし達を望み、神がわたし達を見守っておられるのです。
わたし達は、自分の力で新たに生まれ変わることはできません。しかし、神の愛を知るとき、キリストに結び合わされ、新しく誕生します。何才になっても、キリストにあって新しく生まれることが出来るのです。つまり、わたし達が新しい者に生まれ変わるのに、遅すぎるということはないのです。