「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(フィリピの信徒への手紙1章1-2節)
おはようございます。山田教会の牧田吉和です。お変わりありませんでしょうか。今、朗読しました聖書の言葉は、パウロというイエス・キリストの弟子がフィリピの町の教会に書き送った手紙の書き出しです。当時の手紙の作法に従って、「差出人」、「宛先人」、そして「挨拶の言葉」の順序で書き始められています。ごく普通の書き出しなのですが、その書き出しにビックリするような言葉が記されています。
特に注目したいのは、差出人である自分を「キリスト・イエスの僕」と呼んでいる点です。日本語の「僕」という言葉はまだ少し柔らかい感じがあります。しかし、この言葉のもともとの意味は「奴隷」です。これは、「キリスト・イエスの奴隷であるパウロとテモテから」という書き出しなのです。
当時のローマ世界ではまだ奴隷制度は残っており、奴隷は主人の持ち物として売買されていました。主人の命令に従うだけの自由のない、惨めな境遇でした。パウロ自身は、ローマ市民権を持つ自由人でした。にもかかわらず、自己を紹介する時にわざわざ「奴隷」という言葉を用いているのです。ですから、非常に強い思い入れをもってこの言葉を使っているのです。
パウロが強い思い入れをもって奴隷という言葉を用いたのは、パウロにとって主人であるイエス・キリストはすべてであり、キリストこそが命だったからです。この思いは良く理解できます。
第一に、パウロはかつて罪の奴隷でした。しかし、パウロは、イエス・キリストの十字架の尊い血潮によって買い取られ、罪の奴隷状態から解放され、主人であるキリストの持ち物にされたという事実があります。
第二に、主人であるキリストは横暴な暴君ではありません。十字架においてご自分の命をささげるほどまでにパウロをも愛してくださった方であり、今も愛しつづけてくださる方がパウロの主人なのです。
第三に、主人であるキリストは十字架の死から復活し、今も生きておられ、死に打ち勝ち、勝利から勝利へと導いていてくださるお方です。パウロは別の聖書の箇所で「万事が益とされる」と言いましたが、自分を愛してくださる方によってそのような確かな勝利の確信がありました。
パウロにとってキリストの奴隷であること、キリストの持ち物であるということは、神の恵みの御手の中に握られ、守られていることを意味しました。これはパウロにとって、何物にもかえがたい喜びと慰めであったのです。
この手紙を読み進むと、パウロはこのとき投獄され、明日の命もわからぬ身の上であったことがわかります。その獄中から「イエス・キリストの奴隷」と書き出しているのです。そこにはキリストの奴隷であることの、またキリストの持ち物であることの喜びが溢れています。事実、パウロはこの手紙の中で繰り返し、繰り返し喜びについて語っています。この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれているほどです。
16世紀の「ハイデルベルク信仰問答」の第一問は有名です。
問は、「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。」という問いです。その答えは、「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります」(竹森満佐一訳)
生きている時も死ぬ時も、唯一つの慰めは、「キリストのもの」「キリストの所有物」であるということ、つまりはキリストの奴隷であることが唯一の慰めだということです。パウロはこの慰めと喜びを知っていたからこそ、「イエス・キリストの奴隷」と声高らかに叫んだのです。聖書はキリストを信じて、この慰めと喜びの中にわたしたちを招こうとしているのです。キリスト・イエスを主人として持つことはそれほど素晴らしいことなのです。