キリストへの時間 2013年4月7日(日)放送 キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

牧田吉和(山田教会牧師)

牧田吉和(山田教会牧師)

メッセージ: 生き生きとした希望

 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほえたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(ペトロの手紙第一 1章3-4節)

 おはようございます。山田教会の牧田吉和です。さわやかにお目覚めでしょうか。今朝も聖書の言葉をあなたの心にお届けしたいと思います。

 キリスト教といえば、多くの方が思い浮かべられることの一つに「洗礼」があります。クリスチャンになるということは洗礼を受けることだとよく知られているからです。確かに洗礼はキリスト教の特徴的な儀式です。そうだとしますと、そこにはキリスト教信仰とは何かを示すものがあるにちがいありません。今朝は洗礼の意味を考えることによって、キリスト教信仰とは何かをお話ししたいと思います。

 ヨーロッパの古い教会には、教会堂の中にたいてい洗礼の時に用いる水盤が置いてあります。洗礼用の水盤は、多くの場合伝統的には八角形で作られています。八角形は、ローマ帝国の時代のお墓が八角形であったことに由来します。このことは洗礼がある意味で葬儀であることを示しています。
 “葬儀”と言われると、ビックリされるかもしれません。洗礼が葬儀に似ているというのは、洗礼によって水の中に沈み、そこで古い自分が葬り去られることを意味しているからです。しかし、実はそれだけではありません。古い自分が葬り去られるだけではなく、水から立ち上がる時、それは新しい自分の誕生をも意味しているのです。ですから洗礼は、葬儀は葬儀でも、後ろ向きではなく、新しい自分の誕生を告げる希望の儀式なのです。

 今朝の聖書の言葉はこのことを教えています。
 「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、」(1:3)と語っています。
 この聖書の言葉は洗礼の儀式を意識して記されています。ここには、「生き生きとした希望を与え」という素晴らしいことばがあります。「死んだ希望」ではない。「失われる希望」でもない。「生きた希望」、そして「生き生きとした希望」が与えられるとあります。それは「失われることのない永遠のいのちの希望」を意味しています。

 しかし、そのような希望が与えられる根拠があるのでしょうか。あるとすればそれは何でしょうか。聖書の言葉は、その根拠を「死者の中からのイエス・キリストの復活によって」とはっきり語っています。
 先週はイエス・キリストの十字架の死からの復活を記念するイースターでした。この番組をお聞きくださっている方々の中にも教会で復活節を祝われた方もいらっしゃることでしょう。
 わたしたちキリスト者はイエス・キリストがわたしたちの罪のために十字架にかかって死に、三日目に復活された、今もそのキリストは天にあって生きておられると堅く信じています。
 洗礼はキリストを信じて、キリストに結び合わされることを意味します。キリストに結び合わされて、罪に汚れた自分はキリストと共に葬り去られること。同時に、キリストと共に、キリストの復活の命に生かされて新しい自分とされること。永遠の命の希望に生かされていることを意味します。聖書の言葉に次のような言葉があります。

 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(2コリント5:17・口語訳)
 これが、洗礼が指し示すわたしたちの中で起こっている驚くべき事実です。そしてここにキリスト教信仰とは何かも語られています。キリスト教信仰とは、復活のキリストと一つにされて「新しくされて、生き生きとした希望に生きる信仰」なのです。

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