おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
きょうはキリスト教会にとって、もっとも記念すべき日です。それはイエス・キリストが墓を打ち破って死者の中から復活された日だからです。キリスト教会が毎週日曜日に礼拝を守っているのも、このキリストの復活を毎週記念しているからです。このキリストの復活が弟子たちを奮い立たせ、キリストの福音を確信をもって世界に伝えさせた、と言っても言い過ぎではありません。
もちろん、キリスト教が伝えているキリストの復活は、単なる死からの蘇生ではありません。心肺停止していた人が、何かのはずみで生き返ったという話なら、あり得ない話ではありません。そんなことをキリスト教会は伝えているのではありません。また、そんなことを信じても意味がありません。
キリストは体をもって死から甦り、しかも永遠の命に甦ったという点にこそ、キリストの復活のユニークさがあるのです。キリスト教会は今も生きておられるキリストを信じているのです。体をもって天に挙げられ、今も父なる神の右に座しておられるキリストを信じているのです。
もっとも、これだけの話を信じろといっても信じられないのは当然です。人が信じることができるのは、よくあること、再現できること、常識で考えてありうることだけだからです。しかしキリストの復活は、よくあることでもなければ、再現できることでも、常識で考えて起こりうることでもありません。ただ神の力だけがそれを可能にし、その神の力を信じる者だけが、キリストの復活をも信じることができるのです。
キリストが復活したかしないかという議論は、どこまでいっても平行線に終わります。しかし、そんなあり得ないような出来事がいったい何のために起こったのか、このことについてはぜひ知っておいていただきたいと思います。
そもそも、どんな人にとっても死は避けることができない事柄です。「肉体の死」という点に限っていえば、動物も死を迎えるわけですから、死は人間だけの問題ではありません。生物学の視点からいえば、動物の死も人間の死も、何も変わることがないでしょう。しかし、人間の「死」というものは、単に生物学上の問題だけではありません。人間だけが持っている「死」の意味があるのです。
聖書の教えでは、「死」というものは人間の罪と深い関係があるものです。そのことを端的に表しているのは、旧約聖書の「創世記」に出てくるアダムとエバの堕落物語です。人は神の命令に背いて、食べると必ず死ぬと言われた善悪を知る木の実から食べてしまいました。一般的にこの物語は、人間はなぜ死ぬのか、という疑問に答えた神話だと受け取られがちです。しかし、そうだとすれば、この物語は少しもその疑問に答えていないことになります。なぜなら、善悪を知る木の実を食べなかった動物も死ぬからです。「人間がなぜ死ぬのか」ではなく、「人間の死にはどのような意味が込められているのか」ということこそ、読みとるべき事柄です。パウロの言葉を借りれば、人間の死は「罪の支払う報酬」なのです。(ローマ6:23)
キリストの復活は、この死からの解放を告げ、命の源である神の御前に永遠に生きる道を保障する出来事です。最後の審判の時を恐れる不安から解放され、キリストと共に地上での生涯を全うする希望をもたらす出来事なのです。