おはようございます。南与力町教会の佐藤誠子です。
ここ何年かの間に、祖母、父、義理の父を天に送りました。以前よりも、死や天国が身近に感じられるようになりました。わたしもいずれ死に直面しなければなりませんし、死についてもっと知りたいと思いました。ちょっとやそっとで理解できるものではありませんが、少し考えてみたいと思います。
長く淀川キリスト教病院でホスピスに携わってこられ、現在金城学院大学学長をされている柏木哲夫先生は、著書の中で死について次のように語っておられます。
人は自分で自分の死を支配することができません。どんな死に方をするか、自分で決めることができません。そこに死に対する人間の大きな不安があります。わたしたちの願望や都合と関係なく否応なしにやってきます。死は生の延長線上にあると思いがちですが、わたしたちは死をいつも背負って生きています。
生も死もすべては神の御手のうちにあるのだということを知って神にすべてをゆだねることで、死の恐れを解決することができると書かれています。ある人の一生が終わる前に成し遂げるべきことがたくさんあるように思えることがありますが、その人を神が召される前に神はその人の地上での仕事を完結なさいます。主が定めておられる時に死ぬのが最善で、神が良しとされたところにわたしたちの心の平安と納得があります。
聖書において、死は罪の結果であり罪に対する刑罰であると教えられています。死は神の怒りのあらわれ、さばき、有罪宣告、のろいです。アダムの罪により全人類は罪人として生まれます。唯一、イエス様の十字架の死によるあがないによって、イエスを信じるものが刑罰を免れることができます。肉体の死は信者にとってはもはや刑罰ではありません。天に召された者にとっては、死は天国の入り口、喜ばしい日です。わたしたちもやがて天において再び会うことができます。
身近な人の死に出会う時、悲しみやショックは大きいものですが、それ以上のものを受けることができたように思います。死に至るまでの経緯や、死を通して、命をかけた最後のメッセージをもらいました。一連のできごとの中に神様が確かに働かれていること、わたしたちを動かしておられること、すべてを支配しておられることを感じました。そしてそこに深い神の愛と配慮があることを教えられました。
家族の死が近いことを感じたときに思ったことがあります。死んでからのことは、わたしたちの手の届かないことだから神様におまかせします。せめて生きている間は、わたしたちにできることはしなければと思いました。けれど、わたしたちにできることには限界がありました。何もしてあげれないもどかしさを感じました。生きている時、死を前にしている時も、一緒にいて下さったのはイエス様だったのだと、知らされました。当人にとっては、それが何より心強かったにちがいありません。人は独りで死を迎えます。けれどそこにもイエス様が共にいてくださるということです。
わたしが死ぬ時はどのようになるかまだ分かりませんが、その時まで感謝して神様に従っていけたらと思います。