おはようございます。横浜にある青葉台教会の山村貴司です。
わたしは昔、無神論者の画家としてパリで生活していました。当時わたしは、黒サングラスで革ジャンパー、さまざまな悪いことに身を染めて生活をしていました。そんなわたしがどうして信じる者になったのか、今日と次回の二回、限られた時間ですけれども少しお話をしたいと思います。
始めに、聖書によると神様は、“生きておられる神”と言われています。わたしたちは日本語で“生き物”、“生物”と言う時、いったいどんな対象に使うでしょう。恐らく生物全般、植物や動物に使うでしょう。けれども聖書で“生きている”と言うとき、それは植物には使わず、動物にだけ使うのです。どうしてなのか。それは植物は自ら動きませんが、動物は自ら動き、生きて活動し、こちらに向かって働きかけてくるからです。
聖書の神もそうです。聖書の神はご自分の方から生きて活動し、こちらに向かって働きかけてくださるお方です。
聖書にヤコブという人が出てきます。彼は山の中で一人、ある苦悩と失意の中でうずくまっていました。そしてそこには誰もいないと思っていました。しかしそこにも唯一存在しておられるお方がおられました。それが聖書の神様でした。この時神様は、その存在に気付かないヤコブに、実にご自身の方から近づき、ご自身の方から語りかけ、み手を伸ばされたのです。そして、このご自身の方から語りかけ、み手を伸ばされること、これが一貫した聖書の神の歴史であり、聖書の神の働きなのです。
けれどもある人は、「この世には色々な語りかけがある、その語りかけがほんとうの神様からのものか、もしかしたらいかがわしいものなのか、わからないではないか」ま、こんな風に言う人がおられるのではないかと思います。
たくさんの識別方法がありますが、わたしはその中の一つは単純で、その語りかけを受けた人がそのあとどうなったか。その人がどんな風に変わったか。その人が善に導かれて生きるようになったか。悪に導かれて生きるようになったか。こうしたことが重要ではないか、と思うのです。わたしたちは、人を悪い方へ暗闇の方へ導くものを信じてはいけません。けれどもわたしたちは、人を善の方に導くもの、人を正しい道や正義の方に導くものは信じてもよいのだ、と思うのです。もし人がそのような道に導かれるなら、それはほんとうの神からの働きかけだ、と言えるのではないかと思います。
さきほどお話したとおりわたしは昔、無神論者の画家としてパリで生活していました。サングラスに、革のジャンパー、左のポケットにはいつもジャックナイフをしのばせていました。悪いタバコや、女性遊びにも興じていました。さらにわたしは、人として最低でした。結婚前に赤ちゃんができ、その人の心を踏みにじりました。
そんなわたしがその道を悔い改め、正しい道へ導かれたのはどうしてでしょうか。そんなわたしがその道を改め、光に満ちた道に導かれたのは、どなたの働きかけでしょうか。聖書の神様です。聖書の神様がさまざまな手段を用いてわたしに働きかけてくださったのです。聖書の神様が、さまざまな手段を用いてわたしを導き、わたしを正しい道、光に満ちた道へと導いてくださったのです。
次回は、わたしが具体的にいったいどのようにしてパリの街で神様に導かれたのか、その時代のことを少し思い起こしながらお話しをしたいと思っています。