おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
先日、ある地方の教会に行った時の話です。都会とは違って、いまだに習俗や地縁血縁の結びつきが強い土地柄です。そんな中でキリスト教を信じて生きるということは簡単なことではありません。その一つの例として、こんなことを聞きました。
何でもその方は、親戚縁者の中で自分一人がキリスト教を信じるようになったそうです。日々、周りの人たちから、何で日本人なのに外国の宗教を信じるのかと、うるさいくらいに言われてきた、という話です。この話を聴いて、同じキリスト教を信じるわたしは、この方の味わってきた悔しい気持ちに思いを巡らせました。しかし、周りの人たちの言い分にも興味と関心を覚えました。
決して皮肉で言うわけではありませんが、きっとそんな風に言っている人たち自身も、洋服に身を包み、靴を履いて、西洋のテクノロジーを当たり前のように堪能している人たちなのだと思います。生活スタイルは西洋風になっても、心は日本人でありたいと願っているのかもしれません。昔から「和魂洋才」という言葉が言われているとおり、技術は西洋式を取り入れるとしても、魂は大和魂であり続けたいということなのでしょう。
もっともその「大和魂」の本質がなんであるのか、そこが問題であるようにも感じます。日本人の感性、ということであるなら、わたしはキリスト教を信じるようになっても、日本人としての感性を失ってしまったという自覚はありません。また、キリスト教を信じることは日本人であることをやめてしまうことであるとも思っていません。しかし、キリスト教から何の影響も受けずに心や感性を保ち続けていることもできません。キリスト教の影響に限らず、心も感性も周りからの影響を受けて、日々変化するものです。そういう意味では、「和魂洋才」というのは便宜上のスローガンであって、西洋の文化・文明に触れて心や感性や思想がまったく変わらなかった日本人などいないと思っています。
そもそも真理や善悪に、洋の東西はあまり関係が無いように思います。真理は万人にとって真理であるはずです。こっちの国で善が、あっちの国では悪だ、ということがあってはならないはずです。日本人だから外国生れの考えはすべて排除するというのでは、あまりにも料簡が狭いように思います。それに、実際の日本人の歴史を振り返ってみれば、日本人はそんなに料簡の狭い民族ではありません。仏教や儒教にしても、それらはもともと外国から入ってきたもので、最初から日本独自に誕生して育ったものではありません。そういう意味では、キリスト教だけが排除されなければならない理由はどこにもないはずです。
ただ、新しいものがしっくりこない、という感覚は十分に理解できます。仏教や儒教が日本人の心に影響を与えてきた歴史に比べれば、日本でのキリスト教の歴史はまだまだ日が浅いとしか言いようがありません。そういう意味での異和感を感じながら、キリスト教の世界に入り込むことは、やはり難しいというのも事実です。
この話はどこまでいっても平行線のような気がしますが、ただ、信じる信じないは別として、キリスト教が何を信じ、何を教えているか、客観的にでも耳を傾けてほしいと願います。必ず人類全体に共通した心の問題に関心が向かうはずです。そうすれば、「日本の」とか「外国の」という区別ではなく、このことがあらゆる人間にとってどういう意味を持つのか、そういう視点からものごとを考えることができるようになるのではないでしょうか。