おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
そろそろお正月気分も抜けて、番組をお聴きのあなたも現実の生活に戻っている頃ではないかと思います。いや、お正月なんて言ったって、普段と何も変わらない日々に追われていた、という方もいらっしゃるかもしれませんね。
ただ、どんな人にも新しい年はやってきますし、また一年、歳を重ねることは避けられません。同じ歳を取るなら、去年よりも今年のほうがよい年となるようにと願うのは、人間だれしも同じです。もっとも、このご時世では、今年が去年よりも良くなるなどと、安易な希望を抱けないのも現実です。そんな贅沢な悩みではなく、せめて去年よりも悪くならないようにと、控えめな願いを抱いている方も多いかもしれません。しかし、それでも新しいチャンスがあれば、それに望みを託してみようと思うチャレンジ精神は、いつまでも失いたくないものです。
ところで、せっかくのやる気をそいでしまう言葉というものがあります。その一つは、たった今しようとしていることを、第三者から「それ、やった?」と聞かれることです。たとえば子供が重い腰を上げて宿題に取りかかろうとしているときに、母親から「もう宿題はやったの?」などといわれると、たいていの子供は不機嫌になって「今やろうとしているところなのに」などと答えて、まるでそのことを聞いた母親がやる気をそいでしまったような言い方をします。もっとも、ほんとうに今まさに宿題に着手しようとしているというよりは、しなくてはいけないことは分かっていても、中々取りかかる気持ちになれない宿題をするようにと催促されて、不機嫌になっているだけのようです。
しなければならないことは自分で分かっていても、なかなか取りかかれないことというのは大人にもありがちです。その原因が自分の弱さや足りなさから来ている場合、他人から催促されると余計にやる気持ちが萎えてしまうものです。
人の気持ちをそぐもう一つの言葉に、「もっと早く始めればよかったのに」というのがあります。たとえば、忙しさにかまけて、放っておいた体調の不良を、いよいよ何とかしなければと一大決心をして医者にかかったとします。そのとき医者から「もうちょっと早く来てくれればよかったのに」などと言われると、さぁ、治療に専念しようという気持ちもどこかへ吹き飛んでしまいます。もう少し何とか別の言い方はないものか、と憤慨しながらも、しかし、他人に対しては、「もうちょっと早くはじめられなかったのかなぁ」と思うことがあります。
さて、イエス・キリストのたとえ話に、「ぶどう園の労働者」のたとえ話というのがあります。夜明け頃、ぶどう園の主人は日雇い労働者を雇い入れます。それから数時間たった9時ごろ、広場で仕事にあぶれていた人たちを雇います。12時と3時に同じようにまた仕事の無い人たちを雇います。さらに夕方の5時にも、もう日没まで僅かな時間しかないにも関わらず、仕事の無い人たちを雇って働かせます。そして、驚くべきことに、このぶどう園の主人は、一日の終わりに、すべての人に同じ賃金を支払ったというのです。
長時間働いた者は不満でしょう。しかし、当時の日雇い労働者の賃金相場に従って、最初から1日1デナリオンの約束ですから、不当なことをしたというわけではありません。聖書の神は、最後の一人にも恵み豊かに救いを提供してくださるお方なのです。
もう遅すぎるなどと諦めてしまわないで、豊かな救いをお与え下さる聖書の神さまのもとで、仕切りなおしてこの新しい年を始めてみませんか。きっと豊かな祝福をうけとることができます。