いかがお過ごしでしょうか。東京教会の今井献です。
今週は、戦争と平和について考えています。マタイ福音書5章9節につぎのように記されています。「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる」。
平和を実現する人は神の子と呼ばれるとあります。このことは、平和を実現することがどれほど貴いことであるかを教えています。
また、キリスト者に平和を実現するために力を尽くすことを求めています。
ただし、平和を実現することがどれほど困難なことであるかも示唆しています。歴史の事実を見ると、キリスト教徒が神の名によって戦争を行ったこと、正義の戦争であると主張してきたことが数え切れないほどあります。なぜなのでしょうか。
戦争は、互いに殺し合うことをよしとするのですから、何らかの意味で「絶対」ということが必要であるように思います。絶対に正しい戦争だ。相手が絶対に間違っている。絶対に見過ごせない。絶対に勝てるはずだ。そして、絶対に神がおよろこびになるはずだ。
何を絶対とするか。ある時代と状況では、神の権威が一番身近で、最も効果的な絶対になりました。今でもそういうことがあります。
また、神に代って国の威信、民族の名誉が絶対的価値とされることもあります。絶対が持ち出されたときには危険であると身構えたほうがよいように思います。
聖書の神は、確かに絶対なのですが、ご自身が十字架にかかることで、わたしたちを救ってくださるお方です。決して、人と人の考えを絶対にするお方ではありません。