お元気ですか。横浜中央教会の立石です。
実はわたしは頸椎の痛みと腰の痛みで、ここ数年ずっと苦しんでいたのですが、今年になってから、頸椎をさらに痛めて1カ月近く苦しんでいました。夜になると神様に祈りました。「神様、どうかこの首の痛みを和らげてください。説教も牧師の仕事も出来ないほど痛いのです。どうか早く苦しみを和らげてください」。
毎日お祈りしましたのに、なかなか聞き入れていただけません。お祈りしている時、この祈りがどんな形で聞かれるかなと思いました。いま通っている病院で新しい治療方法が見つかるのかなあ、違った薬が処方されるのかなあ、そんなことしか思いつきませんでした。「神様、わたしのお医者さんたちに働きかけて良い治療法を与えてください」。そんな祈りもしました。しかしこういう祈りはわたしが解決方法を考えて神様に押し付けていることだと気がつきました。神様には神様の方法があるのです。その後、ある方がわたしの全く知らなかった、頸椎専門の病院を紹介してくださり、そこへ通院することになりました。きっと新しい治療方法が見つかることでしょう。
イエス様は十字架にかけられる前の夜こう祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。(マタイ26:39)杯とは十字架のことです。イエス様は祈りの願いの解決方法を、自分の都合に合わせてかなえてくださいと言ったのではなく「御心のままに」、つまり神様のご都合に合わせますと言われたのです。ここに祈りの本質があります。自分で書いた祈りの処方箋を神様に押し付けるのではなく、どんな形で祈りが聞かれるのか分らない。しかし忍耐をもって祈り続けるのです。