お変わりございませんか。わたしは南浦和教会の大場康司と申します。
韓国のテレビドラマで、「ぶどう畑のあの男」という作品がありました。その中で、記憶に残っているせりふがあります。「わたしは昔、雨降りのときには、傘を差し出してくれる人を、好ましいと思った。しかし今は、一緒に雨に濡れてくれる人を、大切に思うようになった」。こういうせりふです。
聖霊なる神さまは、まさにそのように、わたしたちと一緒に雨に濡れてくださる御方ではないか、と思います。
ところで信仰があれば、常にこの世の歩みは順風満帆で、傘があるから雨に濡れないようになるのでしょうか。残念ながら、必ずしもそうではありません。生きている限り、悲しみや苦しみが伴います。自分で辛い思いをしたり、愛する者の死を経験したり、ということは避けることができません。人生の嵐に、濡れてしまうのです。
それでは結局、わたしたちは悲しみや苦しみに負けてしまうのでしょうか。決してそうではありません。聖霊なる神さまが共にいてくださり、わたしたちの悲しみ、苦しみを、共に担ってくださるからです。雨降りのときにはわたしたちと一緒に雨に濡れてくださり、そのようにしてわたしたちを助け、支え、励まし続けてくださいます。
ですから、わたしたちは苦しいことや悲しいことなど、そういったものをすべて御霊にゆだねて歩み続けていくのです。
今日の御言葉。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます」。ローマの信徒への手紙8章26節。