お変わりございませんか。わたしは南浦和教会の大場康司と申します。
昔パリに一人の文学者がおりました。その頃パリでは、エッフェル塔を建設する話が持ち上がりました。しかしこの文学者は、その建設に反対し続けます。それでも、その甲斐虚しくエッフェル塔は、ある日完成してしまいました。
するとこの文学者は、毎日のようにエッフェル塔に昇っては、時間を過ごすようになりました。不審に思った友人は尋ねます。「あれほどエッフェル塔を嫌っていたのに、出来上がると毎日やってくるのは、どういうわけですか」。
その文学者は答えました。「ここに来れば、厭なエッフェル塔を見ないですむから、毎日ここへやってくるのだ」。
これは罪の問題そのものです。わたしたちは、罪のうちに留まっている限り、実は罪そのものがよく見えません。自分の罪は、別の視点、規準に照らさなければ本当のところはよく理解できないのです。
罪は、根本的に、神さまに対する罪です。わたしたちが神さまを知らずにいること、これが罪です。そして神さまの御心が記された聖書に照らして考えるのでなければ、罪を知ることはできません。聖書を規準として、わたしたちの生き方を省みることが大切です。
その時、罪を知ることになるでしょう。そして、これがわたしたちが神さまに向かって歩んでいくための第一歩となります。そして、わたしたちが罪を告白し神さまに依り頼んでいくなら、神さまは必ずわたしたちの罪を赦して、確かな救いへとわたしたちを入れてくださいます。