いかがお過ごしでしょうか。湘南恩寵教会の鈴木牧雄です。今日も最初に、聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。
詩編49編6節後半からです。
「どうして恐れることがあろうか
財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。
神に対して、人は兄弟をも贖いえない。
神に身代金を払うことはできない。
魂を贖う値は高く
とこしえに、払い終えることはない。」
聖書は決して財宝や富を悪とは考えていません。むしろ神から与えられた賜物と教えています。しかし「財宝を頼みとし、富の力を誇る」のは愚かであると戒めています。なぜなら、財宝も富も人の魂を贖うことができないからです。魂を贖うとは、魂を罪と死の力から救い出すことと考えてよいでしょう。財宝も富も、わたしたちの魂を罪と死の力から救い出すことはできません。見方を変えるなら、わたしたち人間の魂は財宝や富などよりはるかに値高く尊いのです。それで、「財宝を頼みとし、富の力を誇る」ことは、自分という人間の魂の値を低めているに等しく、これほど愚かなことはないわけです。
ですから、むしろこのわたしを値高い人間として造り、財宝や富をも与えてくださった神を誇りとし、頼みとすべきです。そのときわたしたちは生きる方向をまっすぐに定めることができ、魂が罪と死の力から救われ、尊い人間として生きていくことができるのです。