メッセージ: イコニオンでの福音宣教(使徒14:1-7)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教の福音宣教の働きは、使徒たちの時代から今日に至るまで、いまだに継続してなされています。世の終わりが来るまで、きっとその働きは継続してなされていくのだと思います。
確かに使徒たちの時代と比べて、交通網と交通手段の飛躍的な発達によって、福音の広がるスピードは、格段にその速さを増しました。それに加えて、ラジオやテレビ、インターネットなどの通信手段によって、福音の広がる勢いは増す一方です。
しかし、それだけスピードが増しても、それでも福音宣教の終わりは見えてきません。それどころか、今世紀ほど激しい迫害の時代はないとさえ言われてます。一説によると、使徒の時代から19世紀末までに殉教の死を遂げたクリスチャンの数よりも20世紀以降に殉教したクリスチャンの数の方がはるかに多いそうです。
福音が伝わるところに多くのクリスチャンが生れるのと同じくらいに、他方ではキリスト教に対する敵対心も増していきます。それは使徒言行録に記されたパウロの宣教の旅のときにも同じでした。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 14章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。そして、そこでも福音を告げ知らせていた。
使徒言行録に記された、一回目の福音宣教旅行から学んでいます。この福音宣教の旅は、シリア州のアンティオキア教会から派遣されたパウロとバルナバが中心となって行われました。その記録は使徒言行録13章に始まり14章の終りまで続きます。前回は13章の終りまで、その記録をたどりました。
パウロたち一行はアンティオキアから地中海に浮かぶキプロス島へとわたり、島全体を巡ったあと、再び船で北上して、アナトリア半島南岸から現在のトルコの内陸部へと入って行きました。前回学んだのはピシディアのアンティオキアで行った福音宣教活動の成果でした。
その町では、異邦人を中心とした多く人たちが信仰に入りました。そう言う意味では、大変大きな成果を得たことになります。しかし、ユダヤ人たちの反対もそれに増してエスカレートしていきます。その結果、ついにパウロたちはユダヤ人伝道から異邦人伝道へと向う決意を公にします。前回はそこまでを学びました。
さて、ピシディアのアンティオキアの町を追われたパウロたち一行は、進路を南東へと向け、直線距離で百20キロほど離れたイコニオンという町を訪れます。現在のコンヤに当たるその場所は、今でこそ人口が百万を超える都市で、トルコの首都アンカラからは高速鉄道で1時間半ほどで行くことができます。もちろん、パウロたちがピシディアのアンティオキアからイコニオンまで行くには、高原の道を3日か4日かかっただろうと思われます。標高千メートルをこえる道ですから季節によっては、凍てつくような寒さを耐えなければならなかっただろうと思われます。
イコニオンに着いたパウロとバルナバは、さっそくユダヤ人の会堂で福音を語ります。前回学んだ個所では、パウロたちがユダヤ人と決別して、異邦人に福音を伝えると宣告したばかりでした。その彼らがまたしてもユダヤ人の会堂を訪れるというのは少し奇妙に思われるかも知れません。実際このあとのパウロによる宣教旅行の記事でも、パウロはしばしばユダヤ人の会堂や祈りの場を訪れて、そこで福音を語ります。
パウロたちの宣教が、もっぱら異邦人に福音を伝えることに主眼を置くとしても、まったく聖書の神を知らない異邦人に一から救いについて語るよりも、すでに聖書の知識があってユダヤ教に理解のある異邦人を相手とした方が福音を伝えやすいというのは当然です。パウロはそのためならば、ユダヤ人の会堂を訪れ、そこに集う異邦人に福音を語ることに躊躇はしません。
そして、おそらくは、パウロたちはまったくユダヤ人を相手にしないことに決めたという訳ではなかったのでしょう。実際、このときも福音は異邦人にだけ語られたのではなく、ユダヤ人たちにも区別なく語られました。そして、ユダヤ人の中からも主を信じて救いに入る者たちも起こされました。しかも、使徒言行録はその数を「大勢の」と表現しています。もし、その数が大勢でなければ、クリスチャンたちに対して悪意を抱かせようとする企ても起こらなかったことでしょう。パウロたちの福音宣教の成果が、自分たちの存続に脅威を感じるほどであったからこそ、反対者たちの抵抗も大きかったと言えます。
パウロたちは反対者たちの抵抗の中にあっても、イコニオンに留まります。しかも、使徒言行録は「長く」とどまったと記しています。この場合の「長く」という表現が、実際にはどれくらいの期間をさしているのかは、具体的には記されていません。文字どおりには「相当な期間」ということですから、短い滞在でそそくさと立ち去ったということではありません。少なくとも、退去を余儀なくされることのない限り、そこを自分から立ち去るつもりはなかったことでしょう。
しかも、そのような反対者たちの抵抗の中で、パウロたちは、御言葉を「主を頼みとして勇敢に語った」と記されています。決してむこうみずになってがむしゃらに語ったのではありません。主に信頼して語り続けたのです。パウロにとっては、進むのも退くのも、主にすべてを委ねてのことです。主に対する信頼があるからこそ、勇敢であることができたのです。決して人間的な意味で勇敢だったというのではありません。そして、主もまた、このパウロたちを通してしるしと不思議な業を行って、彼らの語ることを証ししてくださいました。
さて、パウロたちの相当な期間にわたるこの町での伝道の結果は、どうだったのでしょうか。使徒言行録は町の人々の分裂を語ります。
「町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。」
これは決して予想外の出来事ではありません。主イエス・キリストもおっしゃいました。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に5人いるならば、3人は2人と、2人は3人と対立して分かれるからである」(ルカ12:51-52)
どのような反対が起こっても、使徒たちのように、主に信頼して大胆に福音を語り続けることが大切なのです。
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