メッセージ: 福音が前進するための役割分担(使徒6:1-7)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
組織が大きくなれば、こなさなければならない仕事も増えてきます。また、解決しなければならない難問も持ち上がってきます。これは教会とても例外ではありません。
開拓伝道を始めたばかりのころは、遣わされた牧師一人で何でもするというのは避けられません。また、教会が小さければ、そうした負担は牧師一人で何とかこなしていける分量です。しかし、人が集まり、人数も増えてくれば、一人の手ですべての必要に応えることができないのは当然です。
きょう取り上げようとしている個所では、教会にとって新たな役割が登場します。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 6章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、”霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。
今まで何回かに分けて学んできた事件…「美しい門」のところにいた足の不自由な男の癒しをきっかけに始まった、使徒たちに対するユダヤ最高法院からの圧力に、一応のけりが着いたかと思うと、今度は直面しなければならない教会内部の問題が起こってきました。それは、日々の分配のことについての苦情でした。
その苦情というのは、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して出てきたもので、日々の分配のことで仲間のやもめたちが軽んじられているというものです。
その出来事を語るにあたって、使徒言行録は「そのころ弟子たちの数が増えてきて」と語ります。キリストを信じ、従う者たちの数が増えてくることは、福音が広がっている証拠として喜ぶべきことです。しかし、そこには同時に、配慮を怠ってはならない大切な事柄も起こるということです。
人数が少ないうちは、隅々にまで目が行き届いていたことが、数が多くなるにつれて、だんだんと目が行き届かなくなります。目が行き届かなくなるというのは、ただ単に、物理的に一目見て人数を把握したり、顔を識別するのが難しくなるということだけではありません。目が行き届かなくなるということは、一人一人に対する関心もそれに伴って薄れていくということです。
人間は神ではありませんから、十人に対して抱いていた関心を、百人になっても千人になっても、同じように一人一人に対して持ち続けることはできません。しかし、そのことを特別に意識しないでいると、なんとなく一人一人を知っているような気持ちでいたり、あるいは、知らない人がいるということを特別なこととは思わなくなってしまいます。そこに問題が起こる大きな落とし穴があります。
また、人数が増えてくれば、それにともなって様々な人たちが集まってきます。全員が信仰以外に共通点が少ないうちはまだよいのですが、出身地が同じ人のグループ、社会的な階層が同じような人のグループ、親族同族などのグループが教会の中にでき始めると、グループ間での対立とまでは行かなくても、主流派ではないグループの人たちは、下手をすると居心地が悪くなってしまいます。もちろん、意識してそのようなグループを作ろうなどとは誰も思わないにしても、ふとした時にグループ意識が顔をのぞかせて、そのグループに属さない人たちに寂しい思いにさせてしまうということがあります。
さて、エルサレムの教会にはギリシア語を話すユダヤ人と、ヘブライ語を話すユダヤ人がいたようです。ギリシア語を話すユダヤ人というのは、ここではパレスチナ以外の外国で生まれ育ったたために母国語ではなくギリシア語を話すユダヤ人のことです。「ヘレニスト」とここでは記されています。同じヘレニストという言葉は、使徒言行録9章29節にもでてきますが、そこでもやはりギリシア語を話すヘブライ人を指していると思われます。さらに同じ言葉は、11章20節にも登場しますが、ここでは、ギリシア語を話すユダヤ人という意味ではなく、前後関係の文脈から判断して、異邦人という意味です。
話が少し横道にそれますが、あとで学ぶことになるアンテオキアの教会は主にギリシア語を話す異邦人クリスチャンからなる教会でした。この異邦人教会とエルサレムにあるユダヤ人の教会は、しばしば初代教会の神学の形成に貢献した二大教会のように扱われがちです。特に言語の解析から、キリストの十字架と贖罪についての神学は、ギリシア語を話すアンティオキアの教会で生まれたとする説を耳にします。
しかし、きょうの個所を読むと分かる通り、エルサレムには既にギリシア語を話すユダヤ人クリスチャンと、ヘブライ語を話すユダヤ人クリスチャンがいたのですから、神学にかかわる表現をいくら言語学的に分析しても、そこから、その神学がギリシア語世界から生まれたなどとは断言できないということです。エルサレムの教会で既にキリスト教信仰にかかわる表現はヘブライ語がらギリシア語に翻訳されていた可能性が十分に考えられるからです。
さて、話を元に戻します。日々の分配にかかわる苦情を解決するために、使徒たちは七人の賜物ある者たちを選出します。しかし、ここで見落としてはならないことは、それらの人たちが何のために選ばれたのか、ということです。
使徒たちは自分たちが「神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」と発言します。
確かに彼ら七人が選ばれたのは、おろそかになりがちな人々への配慮を十分に果たすためでした。しかし、それと同じくらいに大切なことは、使徒たちが祈りと御言葉の奉仕に専念するため、という大きな目的があったことです。
この新しい役割を定めた結果を、使徒言行録はこのように結んでいます。
「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」
教会が大きくなり、いろいろな働きが必要とされるようになることは、今も昔も変わりありません。しかし、どんなに様々な奉仕や役割の分担が登場したとしても、そのことが、神の言葉の奉仕に従事する者たちに役立たないとすれば、意味がありません。教会の中にある様々な奉仕の分担は、御言葉の解き明かしと宣教のためにこそ役立つものとなっているかどうか、その点検が大切です。
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