聖書を開こう 2012年5月17日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神に従う(使徒4:13-22)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 もし、目の前で奇跡が行われたら、はたしてそれを信じるだろうか、と自問してみました。不思議なことが目の前で起こっているという事実は否定することはできないとしても、そこには何かきっと仕掛けがあるのではないか、とまず疑ってみるに違いありません。そしてもし、、その奇跡とともに、怪しげな宗教の勧誘が始まったとなれば、ばかばかしくなって、もう耳を貸さなくなるだろうと思います。
 しかし、その奇跡と共に、自分が信じるのと同じキリスト教の神からのお告げが語られたらどうでしょう。おそらく、それでもすぐには信じたりはしないだろうと思います。そういう自分の態度を予想できるだけに、きょうこれから取り上げようとしているユダヤ最高法院の人たちの態度を一方的に非難することはできません。しかし、それでも、彼らはなすべき大切な一つのことをしていないように思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 4章13節〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。

 きょう取り上げた個所も、「美しい門」のところで起こった奇跡の業から続く、一連の出来事のひとコマです。ペトロとヨハネは捕らえられ、一晩、牢に留置されたのち、ユダヤ最高法院の前に引き出され、取り調べがはじまりました。それに対して、聖書の言葉を引用しながらペトロは堂々とした弁明の言葉を述べました。先週はそこまでを取り上げました。それに対するユダヤ最高法院の反応が記されているのがきょうの個所です。

 まず、議員たちの驚きの様子が描かれます。その驚きには二つありました。一つは、ペトロとヨハネの大胆な態度に対する驚きです。少しもひるんだり、おどおどしたりすることなく、堂々とした態度で弁明の言葉を述べたからです。
 もう一つの驚きは、ペトロもヨハネも律法の専門家ではなく、ただの無学な漁師にすぎないということです。少なくとも言葉づかいからだけでもガリラヤの田舎者であることはすぐに分かったはずです(マタイ26:73)。もちろん、ペトロもヨハネもユダヤ人ですから、幼い時から聖書の言葉には慣れ親しんできたことでしょう。しかし、専門に聖書を学んだというわけでもないにもかかわらず、聖書の引用の仕方やその解釈は驚くほどのものでした。
 さらに、もう一つ議員たちが驚いたことを上げるとすれば、ペトロもヨハネも、まぎれもなくイエスの弟子であったということです。イエス・キリストが逮捕された時、逃げ出した弟子たちの様子は、おそらく彼らの耳にも入っていたことでしょう。弟子たちが離散してしまえば、この活動も下火になると彼らは踏んでいたに違いありません。しかし、下火になるどころか、再び燃えあがろうとしているのです。

 さらに、最高法院の議員たちにとって困ったことには、足を癒してもらった本人がペトロたちと一緒にそばに立っています。こうなっては一言も言い返せない彼らです。

 確かに奇跡の業には動かしがたい証拠があるとしても、しかし、それに伴ってなされたペトロのメッセージや聖書の解釈には、律法学者からの反論はなかったのだろうかと思います。ほんとうなら、その点を巡ってこそ、喧々諤々の議論がなされてもよさそうです。
 もし、ペトロやヨハネの聖書理解に対して反論できないのだとすれば、神の言葉の前に素直に従うべきだったでしょう。しかし、反論できない彼らは、脅しという方法でしかペトロたちに対抗することはできなかったようです。

 彼らが相談の末に出した結論は、こうでした。

 「このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう」

 この発言は、イエス・キリストを殺そうと計画したときの発想と少しも変わっていません。あのとき、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を招集してこう言いました。

 「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(ヨハネ11:48)

 彼らが恐れていたのは、自分たちの民族の行く末でした。騒ぎが拡大して、暴動にでもなれば、ローマ軍の介入で自分たちの自由が奪われることを恐れていたのです。また、そこには自分たちの地位と権力に対する執着も見え隠れしています。

 今回の決定もまったく同じような発想から生まれてきたに違いありません。

 議会はペトロとヨハネを再び呼んで自分たちの意向を伝えます。しかし、これに対してペトロとヨハネはきっぱりと答えます。

 「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

 ペトロやヨハネが自分たちの見たこと、聞いたことについて確信をもっていることは疑いようもありません。もし、その確信が、ただの妄想や誤解にすぎないのだとすれば、その点をこそ議会は指摘すべきであったでしょう。けれども、その点についてはひとことも触れず、ただ力で抑えこもうとしているのです。
 それは、ペトロやヨハネの聖書理解が、論評するに値しないほど幼稚だったからでしょうか。もしそうだとすれば、それをやっきになって力で抑え込むことはナンセンスです。論評に値しないほどのものであるのなら、放っておいても下火になってしまうでしょう。
 むしろ、自分たちには反論できないほどの脅威と映ったからこそ、脅しによって抑え込もうと必死だったのです。

 ところで、ペトロたちの言った言葉…「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」というこの言葉は、自分たちに都合よく引用されがちです。けれども、少なくともペトロはただ体験からだけではなく、神の言葉に照らして自分たちの主張が神の御心にかなうものであることを確信していました。神に従っているというためには、神の言葉の裏付けこそが大切なのです。そして、ユダヤ人の議会はその点の反論を示すことができなかったのです。

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