ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
死刑に処せられたあの人が、実は救い主であった、ということを語ったとしても、まともに取り上げてもらえそうもないことは目に見えています。まして、死者の中からの復活が、その人が神から選ばれた救い主であることを示す動かぬ証拠である、などと言い出したら、誰も相手にはしてくれそうもありません。これはまさに初代教会の人々が直面した問題でした。
しかし、キリストの弟子たちは、ペンテコステの日以来、少しもためらうことなく大胆に、十字架刑に処せられ、死んで甦られたナザレのイエスこそ、神から遣わされた救い主メシアであることを証しし始めたのでした。
きょうはキリスト教会最初のメッセージとも言うべき、ペトロの説教を取り上げてみたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 2章22節〜36節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
先週に引き続き、五旬祭の日に、集まる民衆を前に語ったペトロの説教から取り上げています。前回は、民衆たちが耳にして集まってきた激しい風の音と、また民衆たちが目撃したキリストの弟子たちの、一見酔っ払いのような姿が、いったい何を物語っているのか。そのことををペトロの説教から学びました。今自分たちが目撃している出来事の意味を知ることは、そこに居合わせた人たちにとって最大の関心事だったに違いありません。「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。
『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、
『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』
と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。
『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』
だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」