聖書を開こう 2012年3月8日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 約束の聖霊降臨(使徒2:1-13)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 新約聖書が記す聖霊の働きには色々ありますが、物静かな働きと、華々しい働きと両面あるように思います。たとえば、パウロはコリントの信徒へ宛てた手紙の中で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリント12:3)と述べています。そう言われなければ、そのことが聖霊の働きであることには気がつきにくいものです。
 それとは正反対に、きょう取り上げようとしている場面では、聖霊は目を見張るような華々しい働きをしています。
 聖書が聖霊の働きの両面を描いている以上、そのどちらかだけを取り上げることも、どちらかだけに期待を集中させることもできないのだと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 2章1節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 きょうの場面は、ユダヤ教のお祭りの五旬祭での出来事です。この五旬祭というのは、過越祭と除酵祭から数えて五十日目に行われるところから、五旬祭あるいはペンテコステと呼ばれるようになりました(レビ23:15-16)。また過越祭から七週間を数えることから、七週祭とも呼ばれています(申命記16:9-10)。本来は初物の収穫を祝う刈入れの祭りでした(出エジプト23:16)。
 きょう取り上げたこの日の出来事以来、キリスト教会では五旬祭、ペンテコステというと、もはや刈入れの祭りではなく、教会に聖霊が降ったことを記念する聖霊降臨日のことを指すようになっています。それほどキリスト教会にとっては大きなインパクトを残す出来事でした。

 さて、イエス・キリストはかねてから、弟子たちにエルサレムを離れないで、約束のものを待つようにと命じていました(ルカ24:49、使徒1:4)。ただ、約束のものが何時与えられるのかは明確に知らせてはおりませんでしたので、弟子たちは特に五旬祭のこの日に何かが起こるということを期待して待っていたというわけではありません。イエス・キリストが天にお帰りになってから、いつもしていたように、この日も集まって祈りに励んでいたのでしょう。また、今までのユダヤ人の習慣として行ってきたように、その日をユダヤ人の三大祭りの一つとして過ごしていたのでしょう。

 ところが、きょうのこの日は、今までの日とは違うことが突然起こりました。それは、まず、激しい風が吹き荒れるような音から始まりました。目ではなく、耳からこの日の出来事に弟子たちは触れたのです。その激しい風の響きは彼らが集まっていた家全体に鳴り渡ります。

 そして、今度は耳ではなく、不思議な光景を目にします。それは舌が現れて一人一人の上に留まったという光景です。舌のような形をした炎ではなく、炎のような舌が分かれ、一人一人の上にとどまったのです。もちろん、それがどんな人の肉の目にも見える光景だったのか、幻のように見える者には見える光景だったのかは分かりません。いずれにしても、その場に居合わせた弟子たちにはそう見えたのです。

 さて、使徒言行録はそこまで光景を語って、初めて、それが聖霊の活動によるものであることを語ります。

 「すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

 聖霊が舌の形で現れたのは、弟子たちが他の国のことばで語り出したことと関係があるのかもしれません。

 あとで記されているように、弟子たちが語った言葉は、いわゆる異言と呼ばれる言葉とは異なります。聞いた人たちにとって意味がとれない言語ではなかったからです。語っていた弟子たちにとっては今まで習得したことのない言語でしたが、それを聞いた人たちにとっては、ちゃんとした意味を持った外国の言葉でした。

 使徒言行録によれば、そこに居合わせた人々は、ユダヤの周辺世界から祭りのために集まってきた人たちでしたが、彼らには、その語る言語が意味ある言語として聞きとることができたのでした。しかも、その内容は「神の偉大な業を語っている」そういう内容のものでした。

 ところが、神のなさる不思議な御業には、いつも人間の冷ややかな応答も見出されます。この時もある人たちにとっては、それが聖霊の働きではなく、「新しいぶどう酒に酔っている」ただの酔っ払いと映りました。

 使徒言行録は、先ほども触れたとおり、この出来事をイエスが約束してくださった聖霊降臨の出来事として報告しています。

 復活したイエス・キリストはかつて弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と約束してくださいました。

 その聖霊が弟子たちの上に降るや否や、弟子たちは神の偉大な業を語る者とされたのです。

 先週はキリストの復活を目撃し、証人として立つことができる人物を、イスカリオテのユダの代わりに選んだ話を取り上げました。しかし、復活のキリストを見たというだけで、キリスト教の福音が世界に広がっていく力を与えられたのではありません。

 彼らは、聖霊によって力を受けることによって初めて、大胆に語り出し、この時を出発点として、文字通り、地の果てにまで遣わされて行くようになったのです。

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