聖書を開こう 2012年3月1日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 後継者の選出(使徒1:15-26)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 18世紀から始まった、歴史上のイエスという人物に対する研究は、福音書の様式史的研究を経て、20世紀には大多数の学者によって、次のような結論に至りました。つまり、福音書が描いているイエスをいくら研究しても、歴史上のイエスに到達することができない、という結論です。なぜなら、そこに描かれているのは、イエスについての口頭伝承を担った原始キリスト教団の生活の座によって支配されたキリスト像にすぎないからだ、というものです。それ以降、福音書の研究は、歴史上のイエスに対する関心から、伝承を編集して福音書を記述した福音書記者の神学へと研究の関心が移って行きました。
 もちろん、この「史的イエス」についての研究は、その後まったく顧みられなくなったというわけではありません。福音書にしるされた記事から、最古の伝承を切り分けて、そこから歴史のイエスにたどりつくには、より厳密な方法論が求められているという研究者の自覚がいっそう強いものとなっていきました。
 ただ、その研究がどんなに困難を極めるものであるとしても、わたしにとって動かしがたい事実と思えることは、イエスの弟子が確かに存在し、その弟子を選んで存在させたのは、他ならない歴史のイエスそのお方であったということです。

 きょう取り上げようとしている個所は、そのイエス・キリストの弟子たちが、イエス・キリストの強い意思を受け継いで、ユダの脱落によって欠けた弟子団を補充しようとする話です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 1章15節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。
 『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』
 また、
 『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』
 そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。

 今、お読みした個所には、イエスを裏切ったイスカリオテのユダに代わって、使徒の新しい後継者マティアが選ばれる経緯が描かれていました。前回取り上げた、弟子たちが集まって二階の部屋で祈っていたその機会とは、別の日の出来事です。今回の場面には、前回集まっていた人々よりも、遥かに多くの人数が集まっています。その数は百二十人ほどとありますから、弟子たちが集まって祈っていた二階の部屋に入り切れそうもない人数です。もちろん、百二十名というのは文字通りの数字ではなく、十二の十倍という象徴的な数字かもしれません。
 初代教会の核となる人々がいったいどれくらいいたのはか知るすべもありません。少なくともパウロが描いた手紙によれば、復活のキリストを目撃した人の数は五百人以上でした(1コリント15:6)。しかもこの五百人は復活のキリストを同時に目撃したのですから、ばらばらの五百人ではなく集団と考えることができます。そうだとすると初代教会を構成する最初の集団には百二十名を超える人々がいただろうと思われます。つまり、きょうの個所に登場する百二十名はイエス・キリストに従う弟子たちの全部ではなくほんの一部でしかないということです。

 さて、この後継者選びを主導したのは、ペトロでした。ペトロは百二十名程の人々を前に、後継者の必要性を演説しますが、それはこういう内容でした。まず初めにペトロはユダの起こした事件と結末について語ります。それはただの事件報告ではありません。この出来事の意味を過去に記された聖書の言葉から読み取ろうとしている点で、単なる事件報告とは異なっています。

 ユダの裏切りと、その後のユダについては、当時の人々にはよく知られていました。確かに、同じユダの結末を記したマタイによる福音書の記事とはかなり異なっていますが、ユダが非常に残念な仕方で命を絶ったという点では共通しています。
 しかし、そのことよりももっと興味をひく点は、ペトロがユダについて語る時に、福音書の中で使われる決まり切った表現を使っていないということです。福音書の中ではしばしば、イスカリオテのユダは「イエスを裏切った者」「裏切り者のユダ」として紹介されています。ところが、ペトロはそういう決まり切った言い方でユダについて語ったりはしません。むしろどんな仕方で裏切ったのかを淡々と語っています。しかも、ペトロはユダのしたことを非難するのではなく、実現しなければならない神の言葉の成就として厳粛に受け止めています。

 確かにユダの犯した罪は大きな誤りであったことは否めません。そして、その大きな罪の責任はユダ本人にあることも確かです。それを神の御計画と御旨のせいにしてしまうことは、重大な責任転嫁です。
 けれども、神は人の思いを遥かに超えて、人間の犯す愚かな罪をも、ご自身の栄光のために用いてくださるということも確かなことです。ペトロはユダの起こした事件をただ「裏切り」という言葉で要約したりはしません。また、そうした悪人の不幸な結末は、罪への報いであるという因果応報の世界観を展開しません。

 ペトロは、たとえそれがどんなに理不尽な事であったとしても、そこに神の御手の導きがあることを疑いません。そう信じているからこそ、過去の不幸な出来事に何時までも振り回されず、次になすべきことを見出すことができたのです。すべてを導いてくださる神が、ユダにかわる使徒を立てるようにと命じておられるとペトロは聖書の御言葉によって確信しました。

 ペトロには、ユダに代わって立てるべき人物がどのような使命と資格をもつ者であるべきか、明確な基準がありました。

 一つは、その人物が、洗礼をお受けになったイエスと一緒に今までの時を過ごしてきた人物であること。もう一つは主の復活の証人となることができる人物です。

 そして、このことは、使徒である者がどういう使命をもって遣わされているのかということを物語っています。キリスト教にとって、キリストの復活は中心的なメッセージです。使徒たちはそのキリストの復活の証人なのです。
 肉のイエスを知っており、復活のキリストを目撃した者、という厳密な意味での使徒は、この時代限りのものです。しかし、復活のキリストをこの世に対して証しし続ける働きは、決してこの時代限りのものではありません。世に対して大胆に復活のキリストを伝える務めは、教会の中に連綿と続いて、今日にまで至っているのです。

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