おはようございます。清和学園の後登雅博です。
わたしたちは去年の3月に、大きな地震を体験しました。地震が発生してから時間を追うごとに被害のすさまじさが明らかとなってきました。あまりの被害の大きさに心が押しつぶされそうになりました。1995年の阪神淡路大震災もかなり衝撃的でしたが、東日本大震災では津波の恐ろしさに心底驚かされました。車や家が次々と飲み込まれる映像は、皆さんの脳裏にもいまだに焼きついているのではないでしょうか。
もう本当に悲惨な状況を前にして、わたしたちは言葉を失ってしまうのだと思います。被災した方々に向かってかける言葉がありません。祈ってはいます。でも、信仰のない人に対して、「お祈りしていますから」と声をかけることが出来るでしょうか。そればかりか、自分と同じキリスト教信仰を持っている人に対してさえ、祈っていますと言ったところでどれほど慰めとなるのかと思ってしまうほどです。
本当のことを言えば、わたしはこの状況で何を語ればよいのか分からないのです。でも、聖書には「慰め」が語られているのです。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた神、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(2コリント1:3-4)。
わたしたちに必要なのは慰めなのです。しかし、慰めの言葉が多く語られれば良いというわけではありません。むしろ、通り一遍等の慰めの言葉が多くなるとかえって白々しいと言うか、言葉がむなしくなるのです。ですから、わたしたちは人間的な慰めではなく神からの慰めが必要なのです。
人間が書いたものが聖書となりました。しかし、聖書は人間的な慰めを語っているのではありません。「慰めを豊かにくださる神」と書いてありました。聖書に記してあるのは、あくまでも神からの慰めなのです。では、神からの慰めとはどのようなものでしょうか。聖書は言います。
「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです」(2コリント1:5)。
キリストの苦しみも、キリストの慰めも、わたしたちに対して満ち溢れていると言うのです。キリストは十字架で苦しみを受けました。キリストは徹底的に苦しまれました。でも、そのことによってわたしたちに慰めが満ち溢れてくるのです。なぜなら、キリストの十字架はわたしたちのための十字架だったからです。苦しまなければならないのは、本当はわたしたちの方だったのです。でも、キリストがわたしに代わって苦しんだので、わたしはもはや苦しまなくても良いのです。これこそが、キリストによってわたしたちに与えられる慰めなのです。
わたしたちは今なお地震の傷跡を負い、苦しめられています。しかし、それでも希望を捨てないようにしたいのです。わたしたちが悲しみ苦しむとしても、それが必ずや慰めと救いになると聖書には書いてあるからです(2コリント7:10)。わたしたちは今なお、苦しまなければなりませんし、悲しまなければなりません。しかし、今は悲しむ時なのかもしれません。「慰めを豊かにくださる神」が、「あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる」と書いてあるからです。被災された方々のことを思って悲しむ時、その悲しみは必ずや慰められるのです。