いかがお過ごしでしょうか。羽生栄光教会の村田寿和です。神の言葉である聖書をお読みいたします。コリントの信徒への手紙一 第1章22節から24節です。
「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」
「十字架につけられたキリスト」、これは言葉の矛盾のように思われます。十字架刑はローマ帝国の極刑であり、十字架につけられることは敗北を意味しておりました。また、「キリスト」は約束の救い主を意味しておりました。ですから、「十字架につけられたキリスト」は多くの人にとってつまずきであり、愚かなことであったのです。しかし、この手紙を書いた使徒パウロは、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えたのです。なぜなら、キリストはわたしたちの罪のために十字架につけられたのであり、わたしたちを正しい者とするために復活されたお方であるからです。
キリストの十字架の死がわたしの罪のためであり、キリストの復活が死に対する勝利であると信じるとき、「十字架につけられたキリスト」が言葉の矛盾ではなく、神の力、神の知恵であることが分かります。どうぞ、あなたも教会に行って、復活のキリストに出会い、「十字架につけられたキリスト」を信じる者になってください。