いかがお過ごしでしょうか。江古田教会の風間義信です。
教会ではよく「主の祈り」と呼ばれるものが祈られます。これは教会が作り出したものではありません。そもそもこれは、イエス様の弟子たちが「わたしたちにも祈りを教えてください」とイエス様に尋ねた時に、「祈るときには、こう言いなさい」と言われて教えられたものです。ですから、祈りの中の祈りと言っても良いかもしれません。そして、それに続く教えの結びで語られたのが「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」との約束でした。
それは私たちに祈りを与え、祈りの生活へと導いてくださるのが聖霊だからです。聖霊は私たちの祈りの源であり、聖霊の存在なくして私たちは祈ることができません。たとえ自分の口から祈りの言葉が出ているとしても、それはこちら側の力によるのではありません。ですから、ユダの手紙20節では、「聖霊の導きの下に祈りなさい」と勧められているのです。
讃美歌308番は、「いのりは口よりいでこずとも、まことの思いのひらめくなり」と歌い始めます。どうして祈りが口から出てこないのにまことの思いがひらめくのかといえば、それは本来正しく祈ることのできない私たちに、祈りが教えられ、祈ることが出来る者へと変えていただけるからです。それを可能としているのが聖霊です。だからこそ、聖霊の導きを祈り求めていくところに、信仰が強められていくのです。