いかがお過ごしでしょうか。東京教会の今井献です。
今週は、イエス・キリストが十字架におかかりになったことを特別の思いで過ごす受難週です。それゆえ、キリストの受難の意味を考えています。
キリストは、ユダヤ人の手にかかり、ポンテオ・ピラトのもとで、ローマの兵隊たちによって十字架に吊されて死にました。この意味で、キリストは人の手で殺されたと言えます。
しかし、ヨハネ福音書19章28節以下に記されている死の場面を読むと、殺されたのではないキリストの姿が描かれています。イエス様は十字架の上で『渇く』と言われ、ローマの兵隊からブドウ酒を受けました。そして「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた、とあります。なぜ渇くとおっしゃってわざわざブドウ酒を飲まれたのでしょうか。このことには大切な意味があります。
イエス様がユダヤ人たちに捕らえられるとき、弟子のペトロが剣を抜いてイエス様を守ろうとしました。そのときイエス様は「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は飲むべきではないか」(ヨハネ18:11)とおっしゃって、自ら捕らえられていきました。
十字架に吊されて神の裁きを受けていたイエス様は、父が与えた杯、すなわちメシアとしての苦難を一滴残らず飲み干したことをこの不思議な行為によってお示しになったのです。
十字架の死は、殺されたということもできますが、イエスご自身が受け取った杯であり、メシアとしての救いの出来事であったのです。