聖書を開こう 2011年11月17日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 偽らない愛の生き方(ローマ12:9-21)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト者としての生き方にとって大切なことは、何事も愛をもって行うということに尽きます。そのことについての異論はほとんどないでしょう。しかし、愛をもって行うとは、具体的にどういうことなのか、場面場面での適用の仕方については、様々な理解があるように思います。ある事柄をその様に処置することが、ほんとうに聖書の教える愛に合致しているのかどうか、意見が分かれることは少なくありません。あるいは、そもそも聖書が教えている「愛」とは何か、「愛」についての理解から違うということも起こり得ます。
 きょう取り上げようとしている個所には、愛についての理解と、その具体的な適用とが記されています。すべての場面についての適用の仕方を網羅しているというわけではありませんが、しかし、この個所を学ぶことで、様々な場面での愛の行いについて、指針をあたえられるものと確信します。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 12章9節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

 前回取り上げた個所では、教会という共同体の中で、多様な賜物が与えられている信徒一人一人が、自分に与えられた賜物を謙虚に受け止め、全体の益と一致のために、共同体の他のメンバーに対して責任ある生き方をすることが求められていました。
 今回の個所には、その責任ある賜物の用い方を支える原理とも言える「愛」について、まず記されています。

 「愛には偽りがあってはなりません」(12:9)

 「偽りがあってはならない」という言葉は、「偽善的であってはならない」という意味の言葉です。その場合の「偽善」とは、表に出ている行動と、その行動を支える心とが違っていることを意味します。ほんとうはそうは思わないことを、演技でもするかのように、心を偽って行うことです。本心ではないことを行うことです。愛は本心と行動との間に不一致があってはならないのです。心が伴わないうわべだけの愛は、ほんとうの愛ではありません。

 しかし、その愛は、善と悪とがない交ぜになってはいけない、とパウロは注意を促します。

 「愛には偽りがあってはなりません」と語った後に「悪を憎み、善から離れず」とすかさず言葉をつないでいます。

 その人を愛するあまり、善と悪との区別がつかなくなるようでは、ほんとうの愛とは言えません。正しいことを正しいとし、間違っていることは間違っているとする厳格な態度が、愛には求められています。
 何が善で何が悪かの区別は、もちろん、人間がそれを決めることではありません。神の言葉に示された神のご意思が善悪の基準です。愛するということは、神の言葉の基準を正しく学ぶことがなければ、それは独りよがりのものになってしまう危険があるのです。

 ところで、新共同訳聖書では「善から離れず」と、この個所を訳していますが、「離れない」という消極的な態度ではなく、むしろ、「膠で貼りつける」というもともとの意味から考えれば、ぴったりとくっついた様子を言い表しています。「離れない」のではなく、むしろ積極的に善と結びついた態度がここでは描かれています。

 教会という共同体の中で示される愛は、また「兄弟愛」として描かれています。

 「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(12:10)

それは神を父と仰ぎ、お互いを主にある兄弟姉妹として愛する愛です。その場合大切なことは、相手に対する尊敬の心をもって、互いに相手を自分よりも優れた者と思うことです。

 パウロは既に12章3節で「自分を過大に評価してはなりません」と述べましたが、ただ、思うべき限度を超えて自分を過大に評価しないというだけではなく、ここでは、相手に対して心からの尊敬の気持ちと、相手を重んじる態度とが求められているのです。兄弟愛をもって互いに愛し合うとは、このような思いと態度を伴って相手を敬愛することです。

 さて、11節は、今まで述べてきた「愛」についての勧めの言葉とは、直接結びつきがないように感じられます。むしろ、思いつくままに勧めの言葉を並べたようにも受け取れます。

 「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」

 あえて、愛との結びつきを言うとすれば、教会という共同体の中では、互いに偽りのない兄弟愛をもって愛し合うことは大切なのですが、しかし、そのことが決してゴールではないことを11節の言葉は思い出させてくれます。
 確かに教会の中では愛をもって互いに仕えあうことは大切です。しかし、そのことが頭である主イエス・キリストに仕えることを不鮮明にさせてはなりません。パウロは12章の冒頭で、キリスト者の生活原理は、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることだ、と述べました。互いに兄弟愛をもって愛し合い、互いに与えられた賜物をもって仕えあうことは、そのことを通して、主に仕えることと結びつかなければならないのです。

 同様に12節の言葉も、愛についての教えとは直接、結びついてはいないように感じられます。

 「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」

 しかし、互いに偽りのない兄弟愛をもって愛し合うことの難しさを思うと、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈ることの大切さは、当然心を用いるべきことがらということができるでしょう。

 さて、パウロはもっぱら共同体内部での愛の問題を多く語ってきましたが、しかし、その愛は決して内輪に留まるべきものとは考えていませんでした。迫害する者のためには祝福を祈り、悪をなす者には自分で復讐しないで、かえって善をもって悪に打ち勝つようにと勧めています。悪を憎み、善から離れず、偽りのない愛する心は、共同体の外にいる人たちに対しても向ける必要があるのです。

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