ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
夏目漱石の小説『吾輩は猫である』の中に、神の全知全能をめぐっての面白い文章があります。同じ材料から出来ていながら、この世の中に一人として同じ顔がないということは、人間をお造りになった神が全能のお方である証拠だという人間の議論に対して、猫である「吾輩」はまったく逆の見方をしているというのです。つまり、まったく同じものを二つ作る方が、変化を付けて造るよりももっと難しいではないかというのです。
これは明治時代に入ってきたキリスト教に対する皮肉を込めた文章です。なるほど、同じ画家でさえまったく同じものを、昨日描いたようにきょうも描くことはできません。人間の造るものにはバラツキがあるので、そのバラツキを何とかして均一にするために、努力してきたのが近代から現代にいたるものづくりの世界です。
確かにものづくりの世界では、この均一さこそ、技術力の表れで、そういう意味では人間は全能者に近づいたと豪語できるかもしれません。
しかし、ものづくりの均一さを人間社会にまであてはめようとするところに、人間の愚かさがあるように思います。一人一人の個性を認めなければ、規格から外れた人間は人間として扱われなくなってしまいます。もちろん、その規格自体があてになる規格でないことは言うまでもありません。すべての人が違うからこそ素晴らしい人間社会なのに、それを意味のない均一化でまとめて、それを平等の社会と思いこんでいるところに人間の愚かしさがあります。
きょう取り上げる個所で、パウロは一人一人に与えられた賜物に違いがありながら、それらが教会の中でどのように生かされるべきなのか、その原則となる指針を与えています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 12章3節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
前回取り上げた個所では、キリスト者の生活の根本原理は、神に対して聖なる生けるいけにえとして自分自身を献げる生き方であることを学びました。今回取り上げる個所では、人間同士が集まる共同体の中で、一人一人がどういう責任をもって互いに生きるべきかが記されています。もちろん、ここで念頭に置かれている共同体は、キリストを頭とした教会の共同体であることは言うまでもありません。しかし、ある程度はどの社会についても当てはまる部分があることも確かです。ただ、ここでパウロが記していることを、あまりにも一般化してしまうのは、パウロの本意ではありませんので、キリスト者としての共同体にあてはめられた原理として読んでいくことにします。わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。