聖書を開こう 2011年10月13日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: イスラエルの罪と異邦人の救い(ローマ11:11-16)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ローマの信徒への手紙から連続して学んでいますが、特に今取り上げている9章から11章にかけて取り上げられているイスラエルの救いの問題は、特別な個所であるといってもよいと思います。パウロの手紙の中で、これほどまとまってイスラエル民族の救いの問題を取り扱った個所は他にないからです。しかし、その特殊な主題のために、異邦人キリスト者にとっては、ある意味で退屈な個所であるかもしれません。
 しかし、このことを異邦人キリスト者が多くいたに違いないローマの教会にわざわざ宛てて記されなければならない理由が何かを考えると、これは単にユダヤ人であるパウロが、同胞の救いに関して、個人的な思いからこの問題を綴ったとは考えられません。異邦人キリスト者こそ、イスラエル民族の存在の意味を深く思いめぐらす必要を覚えます。

 しかし、また、イスラエルの救いということを考えるときに、そのことを単に終末のしるしとしてだけ捉えようとすることにも十分な注意を払う必要を感じます。確かにイスラエルの回復と終末の時とは無関係でないにしても、イスラエルの回復が、あたかもキリスト者にとってただ時を告げるしるしでしかないという見方は、神がイスラエルをご自分の宝の民として選ばれた意味をあまりにも小さく見積もっていると言わざるを得ません。

 そうしたことを頭の片隅に置きながら、イスラエルの問題についてパウロが語ることをきょうも学んで行きたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 11章11節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。

 今までの学びを通して、イスラエルの大多数の者がキリストにつまずいてしまったということは明らかになりました。しかし、前回の学びでも取り上げたとおり、そのことは、神が彼らを退けられたということではありませんでした。神はご自分の民を退けられたのか、という問いに対して、パウロははっきりとそれを否定しました。

 では、イスラエルがつまずいた、というのは、その結果イスラエルが倒れてしまったということなのか、とパウロは再び問います。きょうの個所は、そのような問いで始まります。
 パウロはそれに対しても「決してそうではない」と否定します。そうではなく、イスラエルが福音につまずいた結果、異邦人に救いがもたらされたと述べて、イスラエルがつまずいたことが無意味なつまずきではなく、異邦人に救いが及ぶきっかけとなったことを指摘します。しかも、単に異邦人に救いの機会を提供するきっかけとなったというばかりではなく、そのことが、イスラエルに妬みをおこさせ、イスラエルを救いへと導くきっかけとなると言うのです。
 つまり、イスラエルがつまずいたことで福音が異邦人世界に入り込み、異邦人が救われることでイスラエルが再び奮起するようにと、神は救いの歴史を導いておられるのです。
 もちろん、このことはイスラエルの罪の責任をうやむやにしてしまうということではありません。福音に背を向け耳を傾けなかったイスラエルの責任は、決して軽いものではありません。しかし、神は人間の頑なさの罪さえも用いて、救いの歴史を導かれるということなのです。
 人間の罪が神の救いの業を妨げるのであれば、救いの御業は決して達成されることはないでしょう。しかし、そうではなく、神は人間の罪に妨げられることなく、返ってこれを人間の救いのために万事が益となるように用いられるのです。

 さて、パウロはこのことについて、こう述べています。

 「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」

 第一に、イスラエルのつまずきは不名誉なことではありましたが、しかし、そのことがこの世界にとって救いの富となったということです。それは言いかえれば、もし、イスラエルが従順であったとすれば、異邦人が救われる機会はなかったということです。しかも、そのような機会を異邦人が得たのは、自分の努力や功績によったのではなく、人間的な言い方ですが、まったく降ってわいたような恵みなのです。

 第二に、イスラエルの罪でさえ、世に救いの富をもたらすのであれば、イスラエルの完成がもたらす富はさらに大きなものであるということです。つまり、この世界救いは異邦人の救いで終わるのではなく、神がご自分の民として選ばれたイスラエル民族の完成をもって、素晴らしい結末を迎えることができるのです。そう言う意味で、イスラエルの救いの問題は、単にイスラエル民族の問題なのではなく、世界の救いと完成と深く結び付いているということなのです。

 13節以下は、一見今まで述べたことの繰り返しに見えますが、パウロは異邦人への使徒として、またユダヤ人の一人として、この問題を自分の実存をかけてもう一度語っているのです。
 一方で、パウロは異邦人に福音を伝える使徒として召されたのですから、その働きに忠実であればある程、異邦人キリスト者の数は増大していきます。他方、その数の増大とくらべて、頑なに心を閉ざす同胞のユダヤ人を見るのは、パウロにとって心苦しいことであったに違いありません。もしそうでなければ、9章の初めや10章の初めで記した同胞のユダヤ人の救いについて記した熱い思いは嘘であったということになるでしょう。

 そのような引き裂かれる思いを抱きながらも、なお異邦人への宣教を大胆に推進していくことができたのは、三つのことがらがあったからです。一つは、異邦人の救いが必ずイスラエルの妬みを引き起こし、彼らを救いへと導くという神の御計画を確信していたからです。
 もうひとつは、イスラエルの捨てられることが異邦人と神との和解をもたらすとするなら、イスラエルが復帰して救われることは、さらに大きな益となることを確信していたからです。それで、パウロはそのイスラエルの復帰のために、たとえわずかなイスラエル人であったとしても、異邦人伝道を通して彼らを奮起させ、福音に立ち帰せようとしたのです。
 そして、三つ目のこととして、16節に記されているように、「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそう」だからです。つまり、神はアブラハム、イサク、ヤコブを通して、イスラエルをお選びになったのですから、たとえ背きの罪をイスラエルが犯したとしても、神はその選びのゆえに彼ら全体を聖なるものとして扱ってくださるという希望を確信していたからです。

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