メッセージ: イスラエルの「残りの者」(ローマ11:1-10)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
パウロが徹底して主張していることの一つは、キリスト教が恵みの宗教であるということです。「恵み」というのは、ただで与えられるからこそ恵みということができます。お金を支払らっていただく恵みというのはあり得ませんし、働きに応じて報酬として与えられる恵みというのもありません。恵みは無条件に与えられるからこそ恵みということができるものです。
しかし、恵みが与えられるのには、どんな条件も要求されない代わりに、自分の意のままに手に入れるということもできません。このことを頭の片隅において、ローマの信徒への手紙の学びを続けていきましょう。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 11章1節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」
前回取り上げた個所の最後で、パウロは「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」という旧約聖書の言葉を引用して(10:21)、イスラエルに対する神の言葉としました。
きょうはそのことを受けての続きです。もし、パウロが引用した通り、イスラエルが不従順で反抗する民であるとするならば、たとえ神が一日中手を差し伸べたとしても、最後には、御自分の民を退けられたのではないか、という疑問が寄せられることが予想されます。
その疑問に対して、まずきっぱりと「決してそうではない」とパウロは断言します。神は異邦人を受け入れ、代わりにイスラエルを退けられた、ということではないのです。その論証として、パウロは自分自身を例としてあげます。
パウロはれっきとしたイスラエル人で、アブラハムの子孫です。そればかりか、由緒正しいベニヤミン族に属する者です。その上、過去の経歴によれば、キリスト教会を先頭切って迫害した人物です。そのパウロを初めとして、他にもユダヤ人キリスト者が教会にはいるのですから、神がイスラエルを退けられたということはあり得ないことです。
パウロは自分のことを例として挙げながら、「神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした」と語ります。つまり、パウロは自分の救いを、単に自分に特定した救いの出来事としてではなく、神の民としてのイスラエルの選びの問題として理解しているのです。
このようなイスラエルに対する神の取り扱いは、イエス・キリストを退けたイスラエルに対する扱いが初めてのことではありませんでした。選びの民であるイスラエルに対して、すでにエリヤの時代にも同じような扱いをしていたのです。
列王記上の19章に記されているとおり、イスラエルの中からバアルにひざまずかなかった七千人を、神はご自分のために残しておられました。まことの神である主を退け、バアルに従っていったイスラエルでしたが、そのような中にあっても、神は選びの民であるイスラエルになお七千人の人々を残しておられたのです。
神は「残りの者」と呼ばれる人たちをとっておくことで、イスラエルを完全には退けることをなさらなかったのです。
しかも、パウロによれば、エリヤの時代に残された七千人は、バアルに膝をかがめなかった報酬として、残りの者とされたのではありません。そうではなく、神が恵みによって七千人を残してくださったからこそ、彼らはバアルに膝をかがめなかったのです。パウロはこのことを受けて、「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」と述べます。エリヤの時代も恵みによって選ばれたからこそ、七千人がバアルに対してひざまずかずに残されましたが、今の時代も同じように恵みによって残されたイスラエルが、神がお遣わしになったイエスをキリストとして受け入れているというのです。
ユダヤ人キリスト者の数は当時の全ユダヤ人に比べれば少数の人々にすぎないかもしれません。それは、エリヤの時代に残された七千人と同じくらい少ない人数に違いありません。しかし、この少数の選びが、終末の時には全イスラエルの救いの発端とされているのです。
このようにして、大多数のイスラエルが追い求めていた「神の義」は、返って彼らが異端としていたユダヤ人キリスト者によって獲得されたのでした。それも律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって、神の義を得ることができたのです。そして、その反対に行いによって義を得ることのできなかった大多数のイスラエルは、ますます心を頑なに閉ざし、福音に耳を傾けなくなってしまいました。
この頑なにされた大多数のイスラエルの意味については、パウロはこの先でさらに取り上げることになります。
ただ、今日の学びでは、神が残りの者を恵みによって選ばれたことを通して、全イスラエルの救いの約束を実現しようとしておられることを心に留めておきたいと思います。
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