ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教の話をしていると、必ずと言ってよいくらい誰か一人くらいから、こんな言葉が返ってきます。
「わたしはとても救われるような人間なんかじゃありません」
しかし、その言葉には二通りの意味があるように思います。一つは遠まわしに、キリスト教の話はもうそれぐらいにしてほしい、これ以上わたしに話しても無駄だ、という意味で、「わたしはとても救われるような人間なんかじゃありません」と、角が立たないようにやんわりと断っているのです。
しかし、別な人は、この言葉を文字通りの意味で使います。
遠回しな御断りの言葉の場合には、機会を改めるなり、アプローチの仕方を変えるなりして、キリスト教について語るのが良いでしょう。
けれども、まじめに自分が救われるに値しないと思っている人だとすれば、その人こそ救いに近いのだと思います。なぜなら、聖書によれば、すべての人は罪を犯したために栄光を受けるに値しないものとなっているのですから、そう自覚できるのであれば、その人こそ自分の救いの必要性に誰よりも気がついているということができるからです。救いの必要性を理解していながら、しかし、自分が救われるに値しないと思うのは、一見相反することのように思われます。しかし、この矛盾をこそ、神はキリストを通して解決してくださるのです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 8章1節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
パウロは7章6節で「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、”霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」と述べました。しかし、今まで学んできた通り、「”霊”に従う新しい生き方」についてのテーマは8章に入るまでいったん保留にしたまま、パウロは「罪と律法の問題」や「内在する罪の問題」を先に取り扱ってきました。きょうの個所で再び霊に従う新しい生き方についてのテーマが取り上げられます。従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、”霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。