聖書を開こう 2011年6月30日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 罪の奴隷と神の奴隷(ローマ6:15-23)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「イエス・キリストを信じれば、罪を赦され救われる」「行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって救われる」と聖書が教えていると強調するのは、プロテスタント教会の主張の一つです。
 しかし、この主張はいつも誤解されがちです。というのは、もしその主張通りなら、クリスチャンの善き行いは不必要なのではないか、と誤解されます。さらにその誤解は誤解を生んで、クリスチャンは罪を犯してもよいとさえ考えられてしまいがちです。

 同じ誤解はパウロも受けました。その問題にパウロがどう答えるのか、ご一緒に学びたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 6章15節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

 前回の学びで、キリストに結ばれた者は、罪に死に、神に対して生きる者とされたことを学びました。従って、恵みが増すようにと罪のうちにとどまり続けることは、原理的にありえないことですし、あってはならないことなのです。

 今回取り上げた個所は、再び反論を予想した問いかけで始まります。

 「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか」

 6章1節で問いかけた問い、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」という問いが、形を変えて再び登場します。

 この二つの問いは表現は異なりますが、問いの出発点は共通しています。つまり、信仰によって恵みの中に加えられたと教える「信仰義認」の考えは、罪を助長することにつながるのではないか、という懸念です。

 パウロはこの二つの問いに対して、はっきりと「決してそうではない」と断言しています。

 パウロはそのことを説明するために、今度は「奴隷」のたとえを持ちだします。

 奴隷というのは、従っている主人に服従することが求められています。二人の主人に同時に仕えることはできません。罪を犯す者は罪の奴隷であって、罪の報いである死に至るほかはないのです。他方、神に仕える奴隷は義に至る奴隷です。

 面白いことに、パウロはここで、罪に仕える奴隷か、神に仕える奴隷か、このふたつの場合しか挙げていません。しかも、両方から中立な自由の身ということは一切念頭にありません。人間的な考えからいえば、罪の奴隷から解放されれば、誰にも束縛されない自由の身となるはずです。しかし、パウロはあえて「神に従順に仕える奴隷」という言葉を使います。罪の奴隷から解放され、しかも、神の奴隷でもないということは、パウロの考えではあり得ないことだからです。なぜなら、パウロにとっては、神から自由であるという状態の人間こそ、もっとも罪に傾いた人間であるからです。既にパウロは、神を知りながら神として崇めない人間の堕落した傾向について述べた通りです(1:18-31)。言い方を変えれば、パウロにとっては、神に仕えるものになってこそ、罪の奴隷から解放されたということができるのです。もし、神に仕えるものとなっていないとしたら、それは罪の奴隷から解放されたものではないのです。

 従って、パウロにとっては、キリストを信じて義とされた者は、罪の奴隷から解放されたと同時に、神の恵みの支配のもとにおかれて、神に従順に仕える者とされたということなのです。そうであれば、「恵みの下にいるのだから、罪を犯してもよい」という主張は、矛盾したあり得ない生き方なのです。パウロに対して、信仰義認の教えは、結局罪を是認し罪を放置することになるのではないか、という批判は的外れな批判でしかありません。

 もちろん、クリスチャンが罪の影響からまったく解放され、完全に清められたか、と問われれば、現実にはそうでないことは明らかです。パウロ自身も自分が完成された人間だとは主張していません。しかし、完成へと向かって走り出している者であることだけは、はっきりと語っています(フィリピ3:12-14)

 罪の支配から原理的に解放されて、神に仕える奴隷とされたのですから、進むべき方向は一つしかありません。それは罪に留まることでもなければ、罪の支配へと逆行することでもありません。ただ、自分の五体を義の僕として献げ、聖なる生活を送ることです。このことこそが信じる者に求められているのです。

 これは救われるためになすべき清い生活ではありません。そうではなく、罪の奴隷から解放されているからこそ、その恵みに応える生き方なのです。

 今までの現実は、罪の支配下にあって、行き着く先は死以外の何物でもありませんでした。しかし、神の恵みの支配のもとでは、永遠の命が賜物として約束されているのです。

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