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聖書を開こう 2011年6月16日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: キリストにあって死から命へ(ローマ5:12-21)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書によれば、すべての人はそのルーツをさかのぼれば、皆アダムに行き着くということになります。従ってその子孫であるわたしたちは皆アダムの罪の影響から免れることはできないのです。
 こういう説明の仕方はすっきりしていますが、しかし、また誤解も招きかねません。罪とは血のつながりのあるところにだけ、遺伝子のように伝達されていくものなのでしょうか。
 もしそうであるとすれば、イエス・キリストにある救いをどう説明できるのでしょうか。生物学的な意味でキリストから生まれる者は誰もいないのですから、これではいつまでたってもわたしたちはアダムの子孫であることに変わりはなく、従って罪の影響から免れることも、死の支配から解放されることもないということになってしまいます。
 しかし、聖書はアダムとキリストとを対比しながら、キリストにあって死から命へとキリストを信じる者たちが移されていると語っています。その場合、どういう意味でアダムとキリストは比較の対象となり、どういう意味でそれがわたしたちと関係してくるのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 5章12節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。

 パウロは今まで、罪の現実と悲惨さについて、また信仰によってのみ義とされる恵みについて語ってきました。
 今まで、パウロが、人間の罪の現実と悲惨さについて語る時、それをアダムと結びつけて語ることはしませんでした。もちろん、パウロはそのことを前提としていますが、あえて口にすることはありませんでした。ここへきてパウロはアダムの違反とわたしたちの罪の関係について触れます。その目的はキリストにある永遠の命と信仰者との関係を明らかにするためです。

 今まで述べてきた罪の現実と悲惨さとは、一人の人アダムから入ってきたのだということを確認したうえで、その罪の結果である死もまた一人の人アダムからもたらされたものであることをパウロは指摘します。
 13節以下では話がすこし横道にそれますが、それは罪が人類に入り込んできたのは、モーセの律法より後のことだ、という反論を予想してのことです。それに答えてパウロは、律法がまだ与えられておらず、律法によって罪の存在が明らかに指摘されないところにも、罪自体が存在していたことをこう証明します。つまり、誰も死の現実から逃れることができなかったという事実から考えると、罪は確実にアダムから全人類に及んでいるのだ、ということです。

 このことを確認したうえで、パウロはアダムが「来るべき方を前もって表す者だった」と述べます。この場合の「来るべき方」というのは、あとに続く文章を読めばわかる通り、イエス・キリストを指しています。ちなみに、パウロはコリントの信徒への手紙一の15章45節で「最初の人アダム」に対して、キリストのことを「最後のアダム」と呼んでいます。

 では、どういう意味で最初の人アダムは、来るべきキリストを前もって表す者」と言えるのでしょうか。一見したところ、アダムとキリストとの間には、何の共通点もないように思えます。なぜなら、アダムは罪と死を人類にもたらし、キリストは義と永遠の命を信じる者にもたらすからです。まるで正反対のアダムがいったいどういう意味でキリストを前もって表していると言えるのでしょう。

 確かに、一人の人が、それに続く多くの人々に重大な結果をもたらすという点では共通しています。パウロは一人の人アダムがもたらした結果と、キリストがもたらす恵みとを比較しながら論を勧めています。確かにこの二人がもたらす結果は正反対なのですが、その結果をもたらすプロセスには共通の事柄があるのです。

 そのことを理解するためには、アダムの犯した罪の結果が、なぜその子孫に影響を及ぼすのか、という聖書独特の教えを理解する必要があります。
 番組の冒頭でも触れたとおり、もっとも単純にこのことを説明するためには、「遺伝」という概念を持ちだすのが一番簡単かもしれません。もちろん、パウロの時代には今日でいう「遺伝」という考え方はなかったでしょう。しかし、素朴に「子供が親に似る」という経験からの発想はあったはずです。しかし、パウロは罪をアダムから子孫へと受け継がれた生き物としての悪い性質と考えていたのでしょうか。そうであるとすれば、アダムがキリストを前もって表しているというためには、キリストもそのあとに続く者に対して同じような生き物としての特徴を受け継がせるのでなければ、アダムとキリストはパラレルな関係にはなりません。

 パウロがここで、アダムのことを、キリストを前もって表す者であると言っているのは、代表者としてのアダム、代表者としてのキリストを念頭に置いているからです。つまり、アダムは彼に続く者たちの代表者として神との約束を受けたのです。もし、アダムが神との約束を守っていたとすれば、その約束の恩恵は子孫たちにも及んだはずです。しかし、現実は罪を犯してしまったために、その結果がアダムを代表者とした全人類に及んでいるのです。
 同じようにキリストもご自分を信じる者たちの代表として、十字架の上で罪の贖いを成し遂げ、代表者として義と命を勝ち取ってくださったのです。ですから、信仰によってキリストと結ばれた者すべてに義と永遠の命とがもたらされるのです。

 パウロがもっとも強調したいのはこの点です。つまり、アダムを通して罪と死が全人類を支配してきましたが、今やキリストを通して、信じる者は義とされるばかりではなく、死を克服して永遠の命が約束されているということです。

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