聖書を開こう 2011年6月9日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神との和解と平和(ローマ5:1-11)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 心を穏やかにして過ごすことはとても大切なことです。不安に心が揺らぎ、何をやっても確信を持つことができないとなると、平安な気持ちそのものを失ってしまいます。
 こうした心の不安は、気持ちの持ちようで一つでどうにでもなるものがほとんどです。しかし、聖書が問題にしている平安というのは、そういう主観的な気持ちの持ちようのことを言っているのではありません。神との関係からくる客観的な平和に基づいた平安な心こそ、聖書が約束する平安です。
 信仰によって義とされた者が、どのように変えられていくのか、ローマの信徒への手紙を通して学びたいと思います。
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 5章1節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

 きょうからローマの信徒への手紙の学びも第5章に入ります。5章以下では、キリストを信じて義とされた者がどのような変化をいただくのか、そのことが記されています。

 少しおさらいになりますが、パウロがこの手紙を書き記す時に、まず取り上げた問題は、人間の罪の問題でした。その場合の人間というのは、ユダヤ人も異邦人も、すべての民族を含んだ人間でした。一人として例外なく、すべての人が罪の現実の中に生きているのです。
 そして、その人間の罪に対して、神の怒りが現されるという現実を、パウロは福音を語るにあたってまず明らかにしてきました。
 その場合、当然人間は自分の罪について責任があるということが前提にあります。そうでなければ神の怒りも神が与える罰も不当なものになってしまいます。人間は自分の犯した罪に対して責任があるからこそ、神は罪に対して怒りをもって臨んでいるのです。

 さて、信仰によって義とされた者たちがいただく変化の第一に、パウロは神との関係が敵対的関係から平和的関係に変わったことを挙げています。パウロが言っているのは主観的に気持ちが楽になったということではありません。信仰によって義とされた今、神との法的な関係が変わったのです。もはや神はわたしたちを怒りをもって罰すべき敵としてではなく、神の律法にかなうものとして受け入れてくださっているのです。
 もちろん、そのように神がわたしたちを取り扱ってくださるのは、キリストによってです。その同じキリストによって今わたしたちが立っている恵みに入れられ、神の栄光にあずかる望みをいただいているのです。
 この「神の栄光にあずかる希望」については、3章23節でパウロが「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」と述べていますが。その言葉と対応しています。罪のもとにある人間には神の栄光にあずかる望みはありませんでしたが、キリストにより、再びその希望を回復していただいたのです。もちろん、その希望が完全に叶えられるのは終末の時まで待たなければなりません。しかし、パウロはこの希望を不確かな希望としてではなく、キリストにあって確かな希望として描いています。

 そうであればこそ、信仰によって義とされた者たちがいただく変化の第二に、パウロは苦難をも誇りとする、そのような生き方の変化を挙げています。その場合、もちろん、確かな希望が苦難の中にある者たちを励まし支えるという意味もありますが、パウロがここで語っているのは、苦難そのものを誇りとする生き方です。

 キリストが栄光にお入りになるときに、苦難の道を通って栄光に入られたのですから、クリスチャンもまた同じように苦難の道をとおして栄光に入るのです。苦難に遭遇することで、ますます、自分が主の者とされていることを確信し、苦難の時を耐え、クリスチャンとして整えられて、希望へと至るのです。信仰によって義とされた者にはそのような希望が与えられているのです。

 パウロは、このような希望は欺くことがない、と述べます。なぜなら、聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからだ、とパウロは言います。

 普通、人は苦しみに出遭うときに、神の愛を疑い始め、希望を失い始めるものです。しかし、パウロは苦しみから神の愛を疑うのではなく、逆にキリストを通して示された神の愛に目を留めるときにこそ、苦しみの向こうにある希望をしっかりと見つめることができると言うのです。
 その神の愛とは、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより」、わたしたちに示された愛です。
 罪人であった時でさえ、神はこのようにわたしたちへの惜しみない愛をわたしたちに示してくださったのですから、キリストを信じて義とされた今は、神の怒りではなく、神の愛の内にいっそう生かされているのです。わたしたちのうちに与えられた聖霊が、その愛をわたちたちに気がつかせてくださいます。

 信仰によって義とされた者は、今、神の側から差しのべられた和解をえているのですから、終わりの時まで、キリストの救いを確信することができるのです。希望はわたしたちの内にあるのではなく、キリストを通してわたしたちを愛し和解してくださる神にあるからこそ、最後の最後まで、失望に終わることがないのです。

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